2014年02月19日 19:49Fujii

お客さんに近いところから発想する

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自画自賛現象

以前に作った架空の映画関連アプリのUIをあらためて見ていたのですが、ダミーで作った映画のあらすじを読んでみるとこれが意外とおもしろいという自画自賛現象が起こりました。

ほんとうに面白いかどうかはともかく、普段の脳みその使い方からはでてこないものがでた気がしました。

ダミー映画のプロセス

ダミーの映画の作成プロセスは、まず、映画らしい何かが必要だと考え、パッケージから作りました。

以前に撮った写真を使い題名をつけました。

題名を考えたというよりも、ローレンイプサムなんちゃらという、有名なダミーテキストをそのまま使いました。

そこに、なんとなくダラーをつけて完成です。

次に、あらすじを考えなくてはいけないので、タイトルから想像しました。

ダラーというならお金がらみかな?とか、ローレンとイプサムは名前に違いない!など適当に考えます。

そして、途中で休憩しジャンルや俳優名を適当に考えていきます。

エンドロールみるとよくわからない日系人の方もたまにいるよなーなどと妄想していきます。

ジャンルはなんとなくサスペンスだということで、あらすじにも反映させます。

サスペンスならとりあえず誰か死なないとはじまりません。

サスペンスなので、死ぬからには何か、不気味な死に方や謎がなくてはいけないよな、、などとつなげ、登場人物がなにかやらかしそうな不穏なプロフィールがいいなと思いてを加え、完成しました。

口コミなども、こんな感じのレビューする人いる気がするなー、この人は自分の基準で評価する人、この人はレビュー欄でうんちくを披露したい人などと妄想していきました。

お客さんに近いところから作っていた

さて、この方法というのはお客さんが目にするものから作っていく方法に思えました。

お客さんはパッケージを見て、あらすじを見て、または、俳優やジャンルを見て、評価を見てという感じで、映画を見始める前にいろいろ見ます。

それらを見ておもしろそうだなと思ったらようやく映画を購入するなどしてみはじめると思います。

お題とアイデア

自分が作ったものがお題となることで、次のアイデアにつながるというのはなかなか面白い現象でした。

今回は肝心の本編が無いですがこういった発想でもおもしろいものができるかもしれないと思いました。

2014年02月18日 19:29Fujii

人間は完璧ではない複雑な生き物

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とげとげしいチーム

全く別の業界ですが、ムードメーカー的な人が抜けて、チームがとげとげしくなったという話を聞きました。

リーダーは言葉少なく論理的に説明するタイプ、ほかのメンバーも細部までルールを細かく決めるタイプなんだそうです。

チームに新たなメンバーが加わって混乱状態で、その「教育」というのもうまくいかないそうです。

チームのリーダーは仕事ができないわけではなく、むしろできるほうであるらしいのですがうまくいかないのだそうです。

教育がうまくいかないときは皆が被害者意識をもつ

「教育」がうまくいかないというときに組織に起こることとして、「皆が被害者意識をもつ」ことです。

教えた側は一生懸命教えたのにと落胆し、ときに怒ることもあるでしょう。

教えられた側は、ろくな教え方をされていない、そもそも腹立たしい扱いをうけたなどとなります。

お互いにストレスフルになりますが、表面に現れやすいのは、立場の強いとされる教える側の振る舞いで、教えられた側は、表面的には静かになったりしますが、行動が伴わない、最低限のことしかしないというのが、よく起こる現象というのは広く知られています。

「教育」は片手間

今回のケースでは論理的なチームリーダーも例外ではなく、やはり、この症状がでているようです。

うまくいかずとげとげしくなっているそうです。

「教育」または「学習」というのは、本来どの組織でも発生することですが、あまり「仕事」としてみなされません。

当事者としても、本業の片手間で行うため、あまり本腰をいれて考えないことが多いでしょう。

そのため、それまでに染みついた組織とはこうあるべきというフレームに知らず知らずとらわれ、それに基づいて自分がうけた教育を同じようにただ繰り返す、または、ルールの強制とチェックに終始してしまうなどになり、それがうまくいかないと、本業ではないため、あまり考えず、感情的な安易な評価を下すこともあるでしょう。

さて、そんなわけで、きっかけによってはとげとげしいチームが悪化するのですが、ムードメーカーは、こういった表面上の論理的なやり方ではうまくいかない部分を担っていたようです。

なので、このチームがうまくいくかはムードメーカーに誰かがなるしかありませんが、キャラクターに強く依存するもので、これはそう簡単なものではないでしょう。

こういったムードメーカーの人は、普段から生活する上でも仕事する上でも感情面も含め振る舞いのひとつとしているセンスがあるのです。

なのでなかなか難しいでしょう。

さて、そういった話を聞きながら、不思議な現象として注目したポイントは、論理的なリーダーでも、ムードを作るということに対しては、論理的にうまく行えないということが起きているということでした。

似たようなことはよくあるのか?

こういった現象は、よくあるのでしょうか?

ほかのケースで考えてみると、「わかりやすさ」について書かれた本がわかりにくいということもあります。(複雑な構造はもともと説明が難しいですが、語り口など)

また、ユーザーの気持ちはわかっても開発者の気持ちがわからないということもあります。

ユーザーの経験をデザインできても、恋愛がうまくいかないということもあるでしょう。

仕事ができていても私生活がうまくいっているかというとそうではない人もいるでしょう。

株式の長期的な投資ができても人間関係は短期である人もいたりときりがありません。

よくあること

どうやら、こういうことはよくあることのようです。

人間はひとつのことができてもほかのことに応用をきかせて何もかもうまくいくような存在ではないようです。

よく考えたら、NBAのバスケの選手が野球もできるかというとできません。

スポーツにしてしまうと当たり前なんですね。

ということで人間はある程度フォーカスして物事に取り組む生き物なのかもしれません。

2014年02月17日 00:40Fujii

「UIデザインを悪くしよう!」という悪玉はいなかった

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「おさまりがよいか」は重要

UIデザインの過程においてあまり語られない重要なことがあります。

それは「おさめる」ことです。

コンセプトにしろ、シナリオにしろ、ユーザビリティテストからの反映にしろ、最終的にUIデザインとしておさまりがよいかどうかが重要ですが、あまり語られることはありません。

さて、このことが、抜け落ちたプロジェクトはどうなるかというと、コンセプトやシナリオ、ユーザビリティテストをすればUIが決まるかのように進められ、多くの場合は、前行程とされるコンセプトやシナリオ、ユーザビリティテストをなんとか反映させようとして、UIのデザインがなんともおさまりの悪いものになってしまいます。

「ユーザーが見るものはUI」ということが抜け落ちる

まず大事なこととして、基本的にユーザーが見るものはUIしかないということがあります。

このことは、すでに浸透しているとはおもいますが、残念ながら「おさまり」を考慮せずコンセプト、シナリオ、ユーザビリティテストによってUIが決まるとして進めたプロジェクトでは、抜け落ちてしまうのです。

コンセプト、シナリオ、ユーザビリティテストを反映させてはみたものの「おさまり」が悪くなってしまうと、当然ユーザーが目にするものも「おさまり」が悪いものになります。

この時点で、引き返すか、再検討するかどうかが大事ですが、「おさまり」を重要視しない場合は、コンセプト、シナリオ、ユーザビリティテストを論理的に反映させた良いUIとして突き進んでしまいます。

「おさまり」とはなんなのか

では、この「おさまり」とは何なのでしょうか?

「おさまり」とはユーザーが目にする最終的に良い感じになったバランスのとれたUIとも言いかえることができます。

シンプルに言えば、コンセプトやシナリオ、ユーザビリティテストの結果はユーザーには見えないので、見えるものとして成立させることのほうが当然先にくるのです。

以前にも述べましたが、映画であればわかりやすいでしょう。

コンセプトや映画館にくる人の状況、試写会の反応などを元にしても、映画として成立していない表現であれば、再検討します。

なぜなら、観客がみるものは映画しか無く、それが映画として良い感じのバランスになっていなければならないのは当たり前だからです。

UIデザインの悪玉はいない

実は、私がUIコンサルティングするなかで感じたことですが、立ち直りがはやいプロジェクトというのは、初期の段階でメンバーに、「ロジックとしては一見正しくても、最終的なUIデザインとして収まりが悪いならダメだ」という認識ができたという特徴がありました。

意外にも、世の中の、悪いUIの例として槍玉に上がるデザインも、もともとは、作りてがユーザーのためを考えながら作っているものです。

私のクライアントには今まで、「最悪なUIを作ってやろう!」という心意気をもつUIデザインの悪玉みたいな方は誰一人としていません。

ユーザー的感覚を持つという意味では反射的に「ここがわかりにくいな」ということを思うのは大事ですが、プロジェクトとして進めるためには、もちろんそれだけで終わるわけにはいきません。

ですから、プロジェクトのメンバーの元々の思いや、エネルギーの方向がうまく転換するかどうかがとても重要なのだとおもいます。

2014年02月02日 17:38Fujii

Q&Aの価値は背景・コンテキストが含まれること

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Q&Aの価値

一つ前の記事を書いていて思ったことですが「問いの中にコンテキストがある」のではないかということです。

学ぶための方法のひとつにQ&Aという表現方法があります。

漫画や映画などでも、二人の人物が台詞でやりとりをして、それを読んだり、みたりすることで、いつの間にか学んでいるということも起きます。

こういったものが一方的に教えることと何が違う価値があるのかということを考えてみました。

背景・コンテキストを含む話ができる

基本的に学ぶときに人は疑問が浮かびます。

読むだけ、聞いただけでなかなか素直に「うん、そうだよな」というように理解することはできません。

そういった疑問がなぜ浮かんでくるかというのは質問者の知識にもよってまちまちですが、質問には背景・コンテキストが反映されています。

つまり、その質問に答えることによって、そういった背景・コンテキストを踏まえて話を展開することができます。

ということで、これが一つ目の価値なのだと思います。

自分の背景・コンテキストを理解する手助けになる

質問の仕方によっては、質問者の背景を明らかにするヒアリングを行って答えるという行為も起こるでしょう。

こういった場合は、質問を行うことで、自分が何に疑問を持っていて、どういう状況であるのかが後から徐々にわかってきます。

質問者にとってはこれはとても重要なことです。

ということで、これは2つめの価値になりそうです。

ステージの3つの種類でいうと

この質疑応答という表現を前回のステージの3つの種類に当てはめるならば、体験のステージで、質疑応答によって思考プロセスを体験することと言えます。

また学習する目的のステージで言えば、自分の背景・コンテキストを把握しながら、自らの学習の目的をフォーカスしていくことにつながりそうです。

人に教える

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人に教える

どのような業界でも、人に教えるということは避けられません。

先輩が後輩に、または、仲間同士、はたまたお客さんに対してなど様々なシチュエーションがあります。

「教える」のメカニズム

教えるときには、教える人と教わる人の間に必ずギャップがあります。
教える人と教わる人はいわば異なるステージに立っています。
大きく行うことは、次の2つになります。

1.ステージを把握する
2.ステージからステージへスライドする

1.ステージを把握する

ステージを把握するために、ヒアリングを行います。

ヒアリングの過程で相手が何を知っていて、何を知らないのかを把握していきます。 ステージには以下の種類があります。

・知識レベルのステージ
知っている知らないといった単純なレベルの知識です。

・体感レベルのステージ
やったことがある、やるとどうなるか経験しているかどうかです。

・学ぶ目的のステージ
教えてもらい何をしようとしているのか、どのような目的で教わろうとしているのかということです。

知識レベルのステージを知ることで、まず、何を知っていて、何を知らないのかを把握し、何を伝える必要があるのかがわかります。

体感レベルのステージを知ることで、教えるときに何をやってもらう必要があるのかがわかります。

学ぶ目的のステージは、本来そもそもの話なので一番最初にくるべきことですが、これはヒアリングを通してわかることのほうが多いと思います。もちろん形式的な目的を把握するために直接目的をきくことも必要です。しかし、一方で、言語化されていない目的は何なのか?という点については聞くだけでなく考え続ける必要があります。

2.ステージからステージへスライドさせる

ヒアリングによってステージを把握した後に行うことは、次のステージに進むことです。

ステージ間の移動方法は人それぞれですが、最も基本的な方法は、自らが学んだときにどのようにステージを移動したのかを思い出すことです。

知識レベルを次のステージに持っていくためには何が必要だったのかを思い出します。

大抵の場合は、体感レベルのステージをあげることで知識レベルのステージも移行できます。
・例)自分でやってみることで学ぶ

このときに新しい知識が身に付いたときに行ったことをよく思い出し、知識レベルのステージと関連のあることを体感してもらうことがとても大切です。
・例)やみくもにやってもらうのではなく、やった結果得られる知識を前提としてやってもらうことを定める

自分がやったことのうち何が学びにつながって、何がつながらなかったのかを分けない場合は、いわゆる、「苦労をしたことも、今思えばそこから何か学んだんだ」という人間の元々もつポジティブ思考が仇となります。

学ぶためには苦労しなくてはいけないというように、要点を整理せずに全く同じことを体感させようとして失敗します。

これらを通して、うまくいかないときに学ぶ目的のステージを考えることになります。

まず、自分が学んだ方法と、対象の人が学ぶときのスタンスの違いを考えます。中にはあまり教わる気がないという場合や、自分が考えていた目的と違っていたということもあり、その場合はタイミングを見計らう必要(ときには教えないということもあり)があります。 (ここは一番難しく、人が学ぶときのスタンスというのは肌で理解することができないのです。すぐにできてしまって悩まない人は教えられないというのはよくある話です。)

うまくいかない場合のいくつかのチャレンジとして、あきらめることも1つです。

肌で理解していない学び方を前提として教えるというのは高度であり、ステップごとに相手の学び方を想像する必要があります。その想像が間に合わない場合は、ほかの人が教えた方が良い場合も多々あるでしょう。

ちなみに言語化されない目的として、楽しく学びたい、仲のいい人から学びたい、尊敬する人から学びたい、ほめられながら学びたい、偉そうじゃ無い人から学びたい、すごそうな人に学びたいなどがあります。なかなか難しいところですね。

また長期的に考えた場合、その対象の人に教えるだけでなく、その人がまたほかの誰かに教えるとことができるように教えるといったこともでてきます。そのひとが誰かに教えることを目的として学ぼうとしているのであれば、その目的にも沿った形で伝えることも必要になります。

まとめ

最後になぜ自分自身が大きく3つの種類のステージを考えるようになったのかを整理してみます。

知識レベルのみを考えていると、説明して終わりになります。正しいことをまたは、最終的に覚えるべきことのみを伝えて終わりです。

大抵に人には、これでは伝わりません。もともと波長が合う人、背景を共有している人であればたまにうまくいきますが。

伝わらないので、今度は、擬似的に背景を共有することが必要になるのではないかと考えました。自分が学ぶに至ったプロセスを共有すれば、相手と背景を共有できます。こう考えた結果が体感レベルです。

そしてそれらを前提とした上で、常に考えなければいけないのが学ぶ目的レベルで、これは、そもそも自分が学んだときと目的が違うのではないかということを予想する視点でした。

これらは、特に正解があるわけではありませんが、意識して仮説をたてながら教えるとようにするとよいと思っています。