2013年04月23日 09:49Fujii

日本人はシンプルなUIが作れるのか?

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日本人はシンプルなUIが作れるのか

日頃、足し算の考え方になってしまっているUIを目にすることもあり、果たして日本人はシンプルなUIが作れるのだろうか?と考えていました。

日本の文化は、引き算の文化?足し算の文化?

みのまわりのものを見渡すと日本には引き算の文化と足し算の文化があるようです。

引き算の文化を感じるのは、石庭に代表されるような最低限のものを置くような表現。

大衆的なもののなかでは余計な装飾のない無印良品。

見た目だけでないものでいうならば、五七五七七という縛りにより、厳選した言葉をいかに組み合わせるかが腕の見せ所になる句の文化。

対して足し算の文化は、例えば、ドンキホーテや歌舞伎町、ゲームセンターなどの装飾満点のものなどなど。

ボタン満載の製品などもそうでしょうか。

一体日本人の文化はどちらなのでしょうか?

縄文と弥生

岡本太郎さんは、日本の文化には弥生土器のようなもの以外に、縄文土器のようなものがあるとして注目をしていたようです。

たしかに縄文土器はごでごてうねうねしていて、弥生土器はつるっとシンプルです。

そんな昔からふたつの文化があるのであれば、縄文と弥生が混ざりあった今の日本は両方の流れがあるのかもしれません。

つまり、大胆に言ってしまえば、日本人の作るUIは、縄文UIか、弥生UIかということなのです。

引くか足すか

この現代の日本においてもいまだ決着のつかない、引くか、足すか大戦争は土器の時代から繰り返されてきていたのです。

そんなわけで、片方が侘びだ寂びだといえば、片方がそんなものは貧乏くさい島国根性だなどといいます。

そうかと思えば、片方がどうだデコったいいだろう、エモーショナルだろうと自慢すると、片方が何だそれは品がないと叫ぶわけです。

縄文人対弥生人という構図ではない

この戦争による混乱は人格の中まで到達し、わかりやすいものが好きと言っておきながら、できたものがごちゃごちゃごちゃやんけということまで引き起こしているのです。

もちろんその逆で、デコるのは好き!と言ったそばから、すぐに使えない!といってアプリやウェブサイトが30秒で死刑宣告を受けることも目にします。

なので、一概に縄文UIが好きな人が縄文人で、弥生UIを作る人が弥生人と簡単にわけられるわけではないようです。

ここまでは日本に限った話でしたが、世界のソフトウェアをざっとみてみてもこれはどうやら日本だけではなさそうです。

この混乱状態をどうとらえるか?

さて、この入り乱れた状態で、そもそもどうすればよいのでしょうか?

シンプルなものはどういうときにどういった良さがあり、ごちゃごちゃしたものはどういうときにどういった良さがあるのか?

そのあたりを考えてみるとある程度整理できるような気もします。

与太話しが長くなったので、そこは別の機会に掘り下げてみようかと。

2013年04月12日 13:10Fujii

ユーザーを目の当りにする

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インプットとしてのユーザビリティテスト

ユーザビリティテストなどで、問題を細分化して、各問題を積み上げ式で改善しようとすると説明過多になりがちというのは何度も書いてきました。

その理由は全体のバランスを考慮することが抜け落ちやすいからだと思います。

とはいえ、ユーザビリティテストというのは意味がないかというとそうでもなく、元々はアプリやウェブサイトなどは、ユーザーが見えにくいものを作ることが多いので、ユーザーを想像する時のインプットとしてはいいのではないかとおもいます。

使い方、使わなかった行為も含め

ユーザビリティテストでなくても、身近にリアルに使っている様子を観察できる機会があればそれもインプットになりますし、自分自身の使い方もインプットになります。

正確には、使い方だけでなく、使わなかったという行為や、最初は慣れなかったが慣れたとか、計測はできないがこういうことをしたなどなど、そういうのものもインプットになるのだと思います。

インプットが変わるとアウトプットが変化

話が少し変わりますが、絵を描くときも実際にモデルになる人物がいるとリアリティがでてきます。

絵というのは平面の上に丸を描いてちょんちょんと点を打つと顔になるというような形の組み合わせのパターンを使うこと以外にもやっていることがあります。

例えば、実際のものを対象にする場合です。単に形の組み合わせのパターンを使うよりも異なるものが描けます。

これはインプットの質が異なるからです。

さらに、最終的には平面におさまる絵を描くのですが、描いているときに立体的にイメージしながら描くことで、重なり具合やものの形も変わってきます。

頭のなかにイメージしたものをひとつの角度から見て平面の絵にすることをしているとも言えます。

そして、極め付けは時間軸も取り入れ動いてるものをイメージして特定の瞬間を平面の絵にするということもやります。

これらのように例え頭の中のイメージでも、紙に線と色を描く前のインプットとしては、形の組み合わせで描くのか、立体的なものとして描くのか、動きがあるものとして描くのかで違っていて、結果として平面に表現されたものもかわってきます。

例えば人であれば、仕草や格好、表情がリアルになります。

どこで読んだかわかりませんが、漫画家の井上雄彦さんが同時に連載しているふたつのマンガに対して、一方は絵が固まらないように筆などを使うなど挑戦していて、もう一方は、とにかく物語が描きたかったので表現方法としてマンガを選んだ、絵に関するものは培ってきたスキルを使うのみにしているというようなことを言っていました。

単純化して捉えるならば、後者は頭の中に物語があり、それを描いていることに近いのかもしれません。運命のいたずらがどこかであれば、映画になっていたのかもしれません。

パーツに分けられていないユーザーを目の当たりにする

話を戻しますが、こういった意味でユーザビリティテスト、また、そのほかのユーザーの使い方(すでに書いたように使わなかったという行為なども含む)に注目することで、普段とは異なるインプットにするというのは意味があるとおもいます。

特に、ユーザーを目の当たりにすることで、パーツの組み合わせで捉えるのではなく、統合されたひとつのものとしてインプットしやすいと思います。