2011年02月27日 22:33Fujii

「デザイン」と「スポーツ」

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「デザイン」と「スポーツ」は一見真逆

「デザイン」と「スポーツ」は一見、真逆に位置しているように見えます。

この2つはイメージの上では「インドア」と「アウトドア」と捉えることもできますし、「美術」と「体育」として扱われることもあります。

一見、真逆です。スポーツをして絵を描く人というのはたくさんいると思いますが、なんとなくイメージとして相反する感じがします。

共通点は?

さてこの2つですが、「脳内にイメージしたことを現実の世界に再現する」ということから考えると共通点が見えてきます。

スポーツはイメージトレーニングという言葉もあるくらいですので、何か新しい動きを習得するときには、必ず脳内でイメージしてから行います。

逆にイメージできないことはできないと言っても過言ではありません。

絵を描くということも、イメージしたことを再現します。こちらも特に説明する必要もないくらいだと思います。

共通点の中で違う部分は?

そういった共通点もありますが、スポーツのイメージトレーニングはより「動的」です。シークエンス、つまり時系列があります。

時系列というのは、「このつぎに、こうなって、こうなって」というように変化していくことで、そういった連続するものがイメージすることの対象になります。

シーンを再現するとき

普段感じることは、何かのシーンを再現するときにこのイメージトレーニングの時と似たようなことをしているということです。

何かのシーンというのは、具体的にはユーザビリティテストのようなイベントの準備でもそうですし、デザインされたものをユーザーが利用する状況を思い浮かべるときもそうです。

連続する動的な想像力

そういった意味で、冒頭の「デザイン」と「スポーツ」が交差するわかりやすい例は、舞台芸術や、映画、アニメーションではないかと思いました。

そいうのも、ああいったものは、静的な想像力だけではなく、連続する動的な想像力も使うのではないかと思ったからです。

2011年02月19日 00:34Fujii

脳内の世界が再現されたものを見ることは、何をどう捉えているか?を垣間見ること

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脳内の世界の再現

デザイナーは脳内に作ったものを再現しています。ウェブデザイナーは脳内のウェブを実際に再現するためにウェブのサイトやサービスを作ります。

おそらくプロダクトにおいてもそうでしょう。脳内にあるものを現実の世界に再現します。

さて、「脳内の世界の再現」は特殊な能力なのでしょうか?そうは思いません。

その程度によって特殊な能力になるとおもいますが、誰でも普段から行っていることだと思います。

例えば買い物にいく

今晩の食材を買いにいくときも行っています。脳内で買い物をして、現実の世界で再現するのです。

どこにいって、なにをさがして、何かを買ってということがだいたい決まっています。それは脳内での世界です。

その世界を実際の世界で再現しようとするのです。

世界観がみえる

脳内のものを現実世界で再現しているとすると、たとえばデザイナーが作ったものを見ると、そのひとの脳内のものがみえることになります。

それは、そのひとが何をどう捉えているか?を垣間見ることになります。

例えば、「北斗の拳」という漫画がありました。

これは、登場人物の大きさがその時によって変わります。

明らかに遠くにいるはずの人が手前の人間よりもものすごく大きくなったりします。

あるシーンでは、同じくらいの大きさの二人だったはずが、別のシーンでは片方の人がもう一人の人を手のひらで持ち上げてしまったりします。

これは、そのシーンごとの存在感を表すために、遠近法や一貫性を無視しているのです。物体としての大きさではなく、シーンの中での存在感を表していると言えます。

登場人物をどう捉えているかが絵になっているのです。

スポーツもそう

じつは前にも描いたスポーツもそうです。ルールという概念のような世界が脳内にあって、それを共有して競技を行っているのです。

脳内にルールを含めた競技の世界があって、それを再現していることになります。

人それぞれ世界観を持っている

さて、ユーザーなどの行動を考えるときにもどう捉えたらいいのかのヒントになります。

ユーザーの言動などをそのまま追うのではなく、ユーザーが、というより一人一人の人間が世界をどう捉えているのか?を考えると違った見方ができるようになるのではないかと思います。

2011年02月18日 01:25Fujii

現実に起こりうる場面を脳内につくりあげて、それを現実の世界に再現する

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絵でシミュレーション

何かの準備をするときにシミュレーションをします。特に自分は絵や図を描きます。

なぜかというとシミュレーションをよりしやすくするためです。

自分自身でもなぜこういうことをやるのかというのを改めて考えてみました。

この行為は一体何をやっているのか?

何の絵を描くか?というとその時によりますが図以外では「場面」を描くことが多いです。

脳内に想像した場面を絵にします。絵にする過程でより強固な場面を脳内につくりあげます。その時に何が周りにあるか?何を手に持っているか?などです。

この脳内の場面というのは、数日後や数時間後に現実に再現される場面です。

現実に起こりうる場面を脳内につくりあげて、それを現実の世界に再現する

なので、単にお絵かきをしているのではありません。現実に起こりうる場面を脳内につくりあげて、それを現実の世界に再現するためにやっています。

例えば、建築などで、作る前に設計図をかくと思いますが、それは単に絵を描いていているのではなく、現実の世界に作りあげようとしているものが描かれています。

この脳内にシミュレーションした世界を現実の世界に再現することについてつらつら描いていこうかと思います。

2011年02月03日 02:22Fujii

中学生の頃、文化祭で落書きできるスペースを作った 後編

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続きです。

行動を変化させるきっかけ

「落書きする」という行動をデザインするためにしたことは、最初にちょっと落書きしておくということだけでした。

もともと、何も無いところに人間は落書きしちゃうので、ほとんど何もする必要がないといえば無いのですが、落書きしているところにはたくさんの落書きが集まっているのを見たことがあったのでそうしてみました。

最初はポツポツと人が入っては出ていったのですが、マジックの匂いでおえっとなるくらいの人が集まってました。

落書きが集まり始めた途中からは、書くのではなく読むということもし始めたので人でギッシリになったのかもしれません。

ろくな落書きがないだろうなとおもってましたが、ろくなものがありませんでした。

しかし、終わったあとで担任の先生は書いてあることからなんか良いことを抜き出していました。

行動が変化した

おとなになった今では、そういったものをピックアップするのもおもしろいかもなと思うのですが、当時は、はっはっは!普段は表には出てないけど、ろくなことを考えてないのだ!見たか!と思ってました。

あんまり落書きも読みませんでした。ただ、何かこう書いている人たちが、あっちいっては書いてとしている様子を見てました。

いまでも、なぜ落書き自体を読もうとしなかったのかはよくわかりませんが、落書きよりも、普段の環境を変化させると、行動が変わるはずだ!ということが目の前で起こったので、満足したのかもしれません。

あとは、なにかこう人が持つエネルギーがくすぶっているのではなく爆発している感じが好きだったのかもしれません。

ひねくれた中学生です。

2011年02月02日 02:09Fujii

中学生の頃、文化祭で落書きできるスペースを作った 中編

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できたのは白いドーム

ということで前回の続きですが、できたものは教室いっぱいに広がる白いドームでした。なぜドームにしたかというと作ってるうちに傾いてきて、なんとなく屋根みたいにしたらおもしろいと思ったからだったと思います。

不安要素は、人は自由に書けるのか?

さて、不安要素のひとつは、「書けるのか?」でした。来た人がほんとうに、書くことができるのか?ということに尽きたと思います。特にテーマもありませんし、何よりも普段学校で「やりなさい」と言われるフォーマットには無いのが特徴です。

学校では「正確に写す」と「答えを書く」ということに字を使うことが多い

簡単に言うと「ほめられる」ことに入ってないわけです。特に学校において字を書くときには、「正確に写す」か「答えを書く」くらいしかありません。

美術や体育の時間はもうちょっと別だと思いますが、字の場合は先ほどの2つがとても多いので、学校という場ではあまり「落書き」は馴染みません。

そんなこんなで、計画が採用された時点で「わっはっは、文化祭とはいえ普段隠れてやるようなことを学校という場でできるようになっちゃうぞ」と思いました。しかも、はじまる前はきれいなものができあがるのでイメージはクリーンです。

「落書きくらいできるに決まってるだろうが」という企み

さて、そんなことを考えつつも「美術や体育では、好きに描いたり動いたりするんだから、字を書く場でも出来るに決まっている。やらないのは創造的な能力があるかどうかじゃないほかの理由があるからだ。人間をなめんなよ。」というわけのわからん気持ちもありました。

つまり、美術や体育では、「怒られない」という場なのでできるのです。同じ人間が違う場でそれをやらないのは、「怒られる」からです。なので能力の問題ではありません。能力の差はいろいろやり出してからその後に出てくることです。

テーマは落書きでしたが、「結果」と「能力」の間にある「暗黙のルール」をなくすことで、「能力」と「結果」が関係していないことを実験してみたかったのかもしれません。このころからひねくれています。

そういう謎の静かな気合のもとで、できあがったドームを眺めていました。

つづく

2011年02月01日 01:26Fujii

中学生の頃、文化祭で落書きできるスペースを作った 前編

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子供の頃の文化祭の話

前に描いた気もほのかにしますが、細かいことはあまり気にしないでおきます。

確か中学生かなんかの文化祭のことです。クラスの出し物を「どないしょ?」となったときに、「なんかおもしろいことしたいなー」と思って「落書きできるようにしよう」と提案してみました。

「落書きできるスペースを作る」ということなのでインパクトがなかったのですが、そのほかのアイデアが大体ありきたりなものだったせいか、決をとってみるとクラスの出し物として決定していました。

落書きスペースの準備

自分としては、準備段階では真っ白なスペースを作るという部分がおもしろいとおもっていました。お化け屋敷や、お店みたいなものと比べると、表立っておもてなしをする感じではないからです。多分準備が終わっても「なんだこりゃ?いいの?」となるのもまた、おもしろそうだとおもっていました。

そんな、作る側にしても、まったく不親切な計画にも関わらず準備というのは楽しいものでみんな特に何というわけではなく、わいわいつくってくれたのでした。

たぶん、なんかよくわからんものを作ってるし、どうなるんだろう?と思ってつくっていた人もいたと思っています。

つづく