2011年01月20日 01:33Fujii

インタラクティビティ(目の前の表現行為に自分も参加している感)

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目の前の表現行為に自分も参加していると感じるか、感じないか

「劇場としてのコンピュータ」では「インタラクティビティの基本的な基準がある」として、こう書かれています。

目の前の表現行為に自分も参加していると感じるか、感じないか

劇場としてのコンピュータ/ブレンダ・ローレル

これを読んで、現実の世界にはありふれているものだと思いました。とてもインタラクティビティの高いもの、例えばスノーボードもそうですがそういったものは、特にコンピュータの世界にあるわけではないということです。

インタラクティビティは現実の世界に溢れかえっている

インタラクティビティという言葉自体は、「コンピュータの世界の」という意味ではもちろんないはずですが現実の世界の話では、わざわざ「インタラクティビティ」とは言わないので無いと思ってしまうかもしれません。

実際は逆で、インタラクティビティは現実の世界に溢れかえっていて、コンピュータの世界では現実の世界ほどないので「言語化」して意識する必要があったため「インタラクティビティ」という言葉が時々でてくるのかなと。

劇場としてのコンピュータ (アジソン ウェスレイ・トッパン情報科学シリーズ)
劇場としてのコンピュータ (アジソン ウェスレイ・トッパン情報科学シリーズ)

2011年01月19日 00:49Fujii

スポーツは誰が考えた?ルールのデザイン、概念のデザイン

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ゲームとルールについて思うこと

昨日の「コンテンツに感情移入できる人間の「ごっこ」能力」でもでてきましたが、ゲームというものが世の中にはあります。

ゲームというとコンピュータゲームを思い浮かべますが、スポーツでもゲームという言葉は使われます。「1ゲームめはどうだった?」という様にです。

スポーツをやっていて考えることは、「誰が最初にはじめたんだろう?」ということだったり、このルールは「誰が最初に思いついたんだろう?」ということです。

それは、絶妙なルールを感じたときに思うこともありますが、「よく考えるとなんでこのフォーマットを人類の一部ではあるけど多くの人は同じフォーマットを守って一生懸命やっているんだろう?」とふと感じたときにも思います。

「誰が最初にはじめたんだろう?」

巻き戻しをしていくと、今自分が行なっているスポーツのフォーマットを覚えたのはあの時だったな、ではその時に自分が知った情報を作った人がいて、それはどういう人だったのかな?おそらくその人も、どこかで教えてもらってそういうルールだと知ったんだろう。

なんてことを考えると、では、最初に考えた人は誰だったのかな?なんておもったりします。正確には誰というよりも、どういったプロセスだったのか?ということです。

巻き戻す過程では、そのルールを知っている人たちが熱狂したり、感動したりするシーンもでてきます。

地球にはじめてきた宇宙人がもし見たとしたら、「何をしとるんだ?」と思う

しかし、サッカーの球がゴールと呼ばれているカゴに入ったからどうだというのでしょう?あんまりそれは意味がありません。バスケットボールも同じです。陸上競技も同じです。速く走ったから、なんなんだ?とわれると、特に返す言葉が思いつきません。

こないだも、ゴルフじゃないですがゴルフみたいな事をやったのですが、穴ぼこに球を棒でつついて一生懸命入れようとしているわけです。これがスポーツというものですが、地球にはじめてきた宇宙人がもし見たとしたら、「何をしとるんだ?」と思うことでしょう。

ルールは必要、しかしなぜそのルールなのか意味は無い

そんなことを考えつつ、とにもかくにもスポーツは「ルール」があるということは確かだと思いました。しかしその「ルール」で決められることはそれほど何か意味があるわけではなさそうです。

カゴの大きさが、大きかったり、小さかったり、足で蹴らなければいけなかったり、足で蹴ってはダメだったりとスポーツによってバラバラです。

ルールのデザイン、概念のデザイン

しかし、どこかでそのスポーツごとのフォーマット、そのひとつとして一番わかりやすいのはルールになりますが、それがデザインされてきたと言えます。

眼に見えない、まさに概念のレベルでのデザインです。

「足を使ってはいけない」「あれをゴールとしよう」「あれに球がはいると得点としよう」「得点は多いほうがいいことにしよう」とそういったことがデザインされたはずです。(「いいことにしよう」というのは価値のデザインです。)

この場合は「なぜそうデザインするのかは特に理由はない」ということになるでしょう。

「そっちのほうが遊びとしておもしろそうだから」。

「しいていうならば」とデザインした誰かが言ったか、その場にいた皆の雰囲気ではこうなったでしょう。

「そっちのほうが遊びとしておもしろそうだから」。

僕は、スポーツの発祥はこうだったのではないかなと勝手に思っています。

そんなこんなで、普段目にするスポーツはルールがデザインされたあとなので(ほぼ決まっているので)忘れがち(もしくは考えもしない)ですが、スポーツは長い目でみると基本的には、「ルールをデザインする人」と「作ったルールを守る人」の2種類いるんじゃないかと思いました。

2011年01月18日 00:32Fujii

コンテンツに感情移入できる人間の「ごっこ」能力

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コンテンツと人間考

短くいうと身の回りのコンテンツとは色々あるよなー、それを色んな形で受け止めて楽しむ人間て不思議だなーというおはなし。

ひとことで「コンテンツ」といっても種類によって必要な集中力が異なる

普段はあまり意識しませんが、体調が悪い時には、受けとめられるコンテンツは限られてきます。

例えば、動きの激しい映像はどんな人でも「今は、ちょっと無理」となるのではないでしょうか?反対に、ゆっくりとした声や、穏やかな声ならまだ比較的受けとめることができると思います。

映像や音声は、コンテンツの進むスピードが相手によって決められてしまいます。なのでそういう面では少し大変。

自分でコンテンツの進むスピードを変えられる文章のほうがちょっぴり楽だったりします。

しかし、文字は文字で読むのにこれまた少し集中力を要しますので、音声と文字だとどっちもどっちかもしれません。

コンテンツと言っても色々

とまあ普段はあまり意識しませんが、具合が悪くなる「ちょっとこれは無理」となるということは「コンテンツを見るだけでもパワーを使うのだなー」と思いました。

また「ちょっとこれは無理」の度合いが違うよなーということから先ほどの比較に至ったわけです。

パワーを使う使わないが、おもしろいかどうかに関係があるとは思いませんが、身の回りの「コンテンツ」をもう一度みなおしてみると、いくつかの種類に分けられるかもしれません。

例えば映像コンテンツの中でめまぐるしくカットが切り替わるコンテンツというのは、頭の中に複数のカットを記憶してひとつの世界を作り上げたりするので大変なんだと思います。

もともと普段から目で何かを見て記憶している時というのは部分部分を少しづつ見て、脳みその中でつなげていると思いますが、実生活では自分のペースでやっています。

激しいカットが続くコンテンツの場合、カットとカットの関連性をキープしておかなくてはいけないし、穴埋めパズルのように、カットとカットの間を想像しなければいけません。さらに映像コンテンツということは、時間配分を相手に委ねていることになります。

そんな要因で集中力を使うのだと思いました。

ということでコンテンツの種類

  • 時間配分を自分で決められる/決められない
  • 複数のカット/単一のカット
  • 自分が何かするか?/しないか?
  • 主観/客観

時間配分を自分で決められる/決められない

例えば、マンガとアニメは何が違うかということにもつながります。マンガは決められた時間で読み終わらなければいけないわけではありません。アニメは時間が経つと終わります。

映画はもちろんアニメと同じ。舞台も時間が決められているという意味では同じです。ラジオも同じ。

ゲームはどうでしょう?ゲームの種類にもよりそうです。普及しているコンピュータゲームはどうでしょう?自分で決められる部分は結構多そうです。とはいえ、一定の時間ごとに何かが変化するという場合もありますのでどちらもありそうです。

わかりやすくいうとコントローラーをほうっておいても、何も起こらないタイプと、なにかが変わっていくタイプで別ということです。

複数のカット/単一のカット

マンガとアニメ、映画は複数のカットから成り立っているという意味では同じです。

一枚の写真は別です。写真集になってくると複数のカットになってきます。

厳密に言うと、一枚の写真の中にも何かを象徴する物などがいくつかはいっていたりしますので、複数とも言えます。見る人がなんらかのつながりを感じたら、その時点で複数とも言えるかもしれません。

意図していない2枚の写真でも、なにかつながりを感じたり、むしろつながりはなんだろう?と自然に考えてしまうのが人間だと思います。

物語はどうなんでしょうか?物語は文章で場面と場面をつないでいきます。例えば「帰省した田舎の自分の部屋で手紙を発見」という場面から「神社で手紙を誰かにもらっている自分」という場面につながったりします。

ひとつの場面を説明する時点でも、「右に椅子があって、椅子の上には時計があって、カチコチ鳴り響いていて、目の前に男が立っていて、男は黒い帽子をかぶっていて、、、」なんて複数のカットを使って説明するので、完全に複数のカットの方にはいりそうです。

ゲームはどうでしょう?オセロとかでないようなコンピュータゲームの場合は複数のカットがつながります。トランプの場合もジョーカーがこっちからこっちに「移動」したとか、誰の順番が「終わった」とかありますので複数のカットともいえそうです。

自分が何かするか?/しないか?

マンガや本はめくるスピードを自分で変える、映画はほぼずっと見てるだけ。では、ゲームはどうでしょう?ものにもよりますが、自分が何かしないと変わらないことが多いです。ここは結構異なります。

とはいえ、今回のもともとの話ででたように、マンガも本も映画も頭のなかでは、見ているものをつなぎ合わせるということをしているので厳密には分けることができません。

主観/客観

主観的なコンテンツなのか?客観的なコンテンツなのか?

文章で言うと、一人称で語られると主観的です。「私の目の前に大きな木が生えていた」というのと「その人の前に大きな木が生えていた」というのだとちょっと変わってきます。映像で言うと、ある意味ただ撮っているものはすべて主観的です。

アフリカの荒野を撮っている映像は、カメラマンの視点を得ることでまるでそこにいるかのように感じることもあるかもしれません。写真もそうです。

本来カメラなどで何かを撮るということはカメラマンの視点に成り代わって見る、そういった性質がありますが、おもしろいのは、映画などになるとそうではなくなります。映画では、「誰か」がいることからはじまります。誰かを撮っているカメラマンの視点である自分はまるでいないかのようになるところがおもしろいです。感情移入をしてしまうことが多いのではないでしょうか。

これは先ほどの文章でもあてはまりますが、一人称でない場合も、本来は客観的に語っている「誰か」がいるはずです。カメラマンならぬ語り部になるのかな。

ゲームはどうでしょうか?これは操作した結果画面の何が変わるかが主観/客観で異なるのですぐに区別がつきます。会社の人に教えてもらったのですが、自分で何かするというゲームでも主観というのは王道ではないみたいです。ひとつのジャンルになっているらしいです。改めて考えると確かに、海外の「DOOM」みたいのしか思いつきません。なので世界的にはどうなのかわかりませんがひとまず日本では多くはないという印象があります。映画のような擬似的な主観というか感情移入といったほうがいいのかもしれません。

ひとつの疑問「感情移入」

色々分けてみましたが、ひとつの疑問が残ります。それは「感情移入」というやつです。

時間軸を委ねていて、客観的な映画のようなものでも、主人公に観客が感情移入します。一人称の小説であれば「私は振り返った」「私の前のあの人が立っていた」という文章を頭のなかで読んだりしていると、なんとなく「うんうん、私は振り返ったのだ」なーんて気になってくるのもわかります。しかし、一人称でなくても感情移入はします。

マンガなどでは、少女漫画と少年漫画でおおよそわかれますが、思考中のこともセリフのように書くのが少女漫画、実際に言ったことを書くことが多いのが少年漫画だったりします。で、もしかしたら少女漫画のほうが、思考中のこともセリフのようになっているので感情移入しやすいのかもしれません。が、少年漫画で感情移入しないかというと、そうでもありません。

映画を例にすると、「映画を見て感情移入する」ということは、カメラマンがいて、カメラマンの視点があって、カメラマンの存在を忘れ、映像を自分の視点だと思う、さらにその視点から見たなかに「誰か(映画の登場人物)」がいて、カメラマンの視点=自分の視点だったはずが、「感情的」にはむしろ「誰か」の視点にいつの間にかなっていたりすることだと思います。

このように映画などはかなり入れ子構造になっているのですが、人間はやってのけてしまうのでちょっと不思議です。「ごっこ」遊びというのも子供の頃からできてしまうのもあらためて考えれば不思議かも。