2010年08月27日 00:49Fujii

それはテキストデータかそうでないデータか?

20100825.jpg

それはテキストデータかそうでないデータか?

情報を分類する、絞り込めないと意味が無い』の続き。

情報を複数の器に振り分ける、つまりタグをつけるというような場合、テキストデータとそうでないデータでわけて考えることも必要かと。

テキストデータの場合

正確にその情報をあらわしたい!と思えば思うほど、テキストデータ、つまり文章のようなデータの場合は、その文章に出ている言葉をすべてタグにしてしまうかもしれません。

そうなったときには、文章自体がタグの集合体のようなことになるので、検索して探せるようにすればよくなります。

そうでないデータの場合

逆に、テキストデータでない場合、写真などは、もともと検索したくても文章ではないのでできません。そういった場合にタグを付けるという行為は、テキストデータを付加するということに近いかもしれません。

2010年08月26日 02:18Fujii

BurtonのIon(09/10)のインナーがいれづらい点を解決する方法

20100824.jpg

ということで、単なる趣味の中での発見がきっかけでした。発見を説明するときに自然と使われる手段。それがインフォグラフィックスなのでは?と。

スノーボードのブーツのインナーがいれづらかったので、解決法がわかった!わーい。ということですが、こういうことを図解する、下手でも図が自然に使われます。こういったものを洗練させる必要はあるかもしれませんが、地味でも気づきがなくてもインフォグラフィックなのかなとおもったり。

関連書籍:

世界のダイアグラムコレクション〈2〉
世界のダイアグラムコレクション〈2〉

インフォグラフィックスは手段

20100823.jpg

インフォグラフィックスとは、どこまでがそうなんでしょうか?情報を絵で伝えるということであれば、実はすべてのものがそうなのではないでしょうか?もちろんいわゆる、一般的に言われるインフォグラフィックスはもっと狭いです。

ただ、広く捉えると、いわゆるUIのデザインと呼ばれるものはインフォグラフィックスの塊と言えそうです。そして何かを伝えるために絵が存在しているのだと思います。

世界のダイアグラムコレクション〈2〉
世界のダイアグラムコレクション〈2〉

2010年08月25日 01:25Fujii

情報を分類する、絞り込めないと意味が無い

20100822.jpg例えば、「情報構造設計(IA)」とか「情報デザイン」とか「戦略」とか「ユーザビリティ」とかに関連のあるコンテンツがあるときに、これらすべてに重複する形で振り分けたときに、どんなことが起きるのでしょうか?

大抵これらの話は似ているので、そういった話にはすべて、上にあるようなところに重複して振り分けられます。

タグをつけるようなイメージです。

ところが、それを続けると、多くの情報に対して、そのタグをつけることになっていきます。

これだと、タグから探そうとしても、絞り込めないのであまり意味がありません。

2010年08月24日 01:30Fujii

情報を分類する器の数が無制限かどうか?

20100821.jpg

振り分ける器同士が排他的ではない場合』に引き続き、実際に表と言ってもどんな種類があるのかを洗い出してみます。

排他的であるか、排他的でないかがありますが、排他的でない場合でも、2種類に分けることができそうです。

振り分ける先が、数が限られているか、それとも無制限なのか?です。

例えば、ブックマークにつけるタグは、無制限に増殖します。なぜ増殖するのかというと、ひとつの情報に対して、様々な捉え方があるからです。

ブックマークのタグはその捉え方の表れであり、一人の人が複数の捉え方をしますし、さらに、複数の人になればもっと種類は増えていきます。

これが、無制限です。この、無制限のタグがからさがそうとしても大抵探せません。

どの器に何を入れたのかが分からなくなってしまうからです。

器の中身が予想できなくなってしまうからですね。これは別で書いたほうがよさそうなので後回しにします。

さて、そういったものとは別で、重複するものの、数が限られている場合があります。

例えば、7個のジャンルがあって、複数のジャンルにまたがる音楽を管理する場合などです。

この場合は、ある程度ジャンルの数を制限しておくことで、ジャンルとその中身を予想しやすくできます。

今日はここまで。

2010年08月22日 12:06Fujii

振り分ける器同士が排他的ではない場合

20100820.jpg

前回の『表とはなんぞ?』の続きです。

前回は、「表」と一言で言っても、実際にはどんな種類があるのかを洗い出すために、振り分ける器同士が排他的である場合を取り上げてみました。

今回は、排他的でない場合です。

音楽のジャンルで、「Pop」だけど、「Rock」ともいえるというのはよくあることだとおもいます。

このような場合、振り分ける器同士が排他的ではありません。Popだからといって、Rockではないということにはならないからです。

このあたりは、情報の分類でよく起こることではないかと思います。

排他的か、排他的でないか、ごっちゃにせずに種類があることをまず抑えておくと混乱しにくいのかなと思います。

ほかに、表にはどんな種類があるのかを引き続き。

表とはなんぞ?

20100819.jpg前回の続きですが、要素が多くても一覧表のように規則性があるものは、読みやすくなるという話です。

音楽のファイルを題材にしてみます。

例えば、ジャンルというところには、「R&B」「Pop」「Raggae」「House」「Rock」「hiphop」 というものなどがあり、どれかに振り分けます。

実はこの振り分けるというというところは、表だけの話ではなく情報整理するときなどでもつかいます。

さて、振り分けるための器というべき候補(音楽のジャンルでいうとジャンル名)のどれかを選ぶことになります。

これがとても基本的な振り分け方です。ベーシックです。

ジャンル名同士が排他的、つまり、R&Bならば、Rockではないということです。

眠いのでここまで。

2010年08月20日 01:16Fujii

規則性のある情報はわかりやすい

20100818.jpg

要素が多いと、混乱します。

基本的にそうだと思います。「情報量」という表現は抵抗があります。というのも混乱しているのに情報といっていいのか?と感じるからで、要素というほうがいいかなと思いました。

増やす方は「情報」だと思っていても、増やせば増やすほど受け取る側にとっては意味のある「情報」ではなくなって、最後にはすべてがノイズになってしまうということです。

それは、この記事もあてはまります。『全体を見て強弱をつけないとどれも目立たない

そういうのが基本ですが、さらに、要素が多くてもまあまあいけることはないだろうか?と考えたことがあります。

あります。

それは、一覧表です。

なぜ、いけるのかというと、規則性があるからだと思います。

要素が多くても規則性があるといけるときもあるということを考えました。

規則性とはなんぞや?という話は次回。

2010年08月18日 00:01Fujii

価値の境界線はどこに?

20100817.jpg

ジムとかもそうですが、お金払って運動しにいきます。

家に帰って、着替えて走るというわけでなくそちらを選ぶ。

お金を払って、一日中、山を登っては、滑り降りてくるのがスノーボード。

人によっては頼まれてもお断り。むしろお金を貰いたいくらいかもしれません。

どこに、価値があるのでしょうか?

境界線はどこなんでしょう?その境界線上にいるときに、人間は気づくのでしょうか?

2010年08月17日 01:42Fujii

価値って何? 食事と生ゴミって同じ?

20100816.jpg

友人の3歳のこどもが片付けをしないときに「天の岩戸作戦」を試してみた』と同じ系統の話です。

食事と生ゴミの違いってなんでしょうか?

付加価値だなんだと言われますが、その前に価値ってなんぞ?食事は価値があって、生ごみは邪魔で、くさいもの。

元はおんなじものなのになんで違うんでしょう?いつ価値がなくなってしまったのか?と。

価値とはなんぞ?

発想系の話で何年も前に読んだ下の本は結構好きな本です。たしか、ゲーム雑誌で宮本茂さんかなんかが薦めてたから買ってみたような気がします。

ライト、ついてますか―問題発見の人間学
ライト、ついてますか―問題発見の人間学

価値とは、意味とも似ています。『名前はまだ無い』というエントリーで空のプ−ルに別の意味を見出したスケーターの話を描きました。

新しい意味、新しい価値、同じものでも変わります。食事と生ゴミも似ています。

「生ごみを毎日食べている」というととても違和感がありますが、何がちがうのでしょうか?

2010年08月15日 15:28Fujii

こと(出来事)としての存在感とは? 人と物のインタラクション

20100815.jpgだいぶ以前に、『「ひとがおもしろパワーを感じるときはいつなのか」 』 という記事を描きました。

今回も、このおもしろパワーについて考えてみます。

ただしつながる面もありますが、今回は以前に描いたような種類ではないおもしろパワーです。

そのおもしろパワーとは、「存在感」です。

きっかけは、ポニョです。

ポニョの中で、気に入っているシーンがいくつかあります。

ひとつは、りさという若い母親が荷物を持って家に入るシーンです。もうひとつは、ふてくされて寝ているときに、ベッドに足をのっけて仰向けになっているシーンです。

言葉からそこまで想像できるか?

気に入っている理由は、一つ目の例で言うと、言葉で「荷物を持って家に帰った」ということ以上の情報がそこに含まれているからです。

別の言い方をすると、自分が「荷物を持って家に帰った」という言葉をきいて、頭の中で想像できることを超えているなーと感じたのです。

どういったシーンかというと、これは見たほうが早いんですが、たくさんの荷物を両手で持っているので、ドアを体を使って抑えてはいっていきます。

そのときに、荷物をひとつ降ろして、鍵を開けて、おろした荷物は最後に身体が家に入った状態でなかから足でドアが閉まらないように抑えながら引きずるように引っ張るというシーンです。

実際はおそらく自分も似たようなことはやっているので、覚えていないだけなはずです。

でも、「だけ」といっても、これは結構重要だぞと思いました。

経験しているからリアリティを感じますが、言葉からは思い出すことができないんです。

だから、言葉から理解するということとも関係があって、「荷物を持って家に帰る」ことが、一体どういう事なのか?がわかっているのかにも関係しています。

特に、動きとしてどういう事なのか?ぱっとでてくるかということがあり、それは人によってもずいぶんと差があるはずです。

当然、そこに差があると同じ言葉を使って話していてもずれてきますし、人の話の受け取り方もまた差が出てきます。

こと(出来事)としての存在感

リアリティという言葉に置き換えてもいいですが、写真のような意味のリアリティになりそうなので、存在感という言葉を使っています。

以前に、物としての存在感について描きました(『「物体としての存在感」とは?そのシステムにはある?』)が、今回は「こと(出来事)としての存在感」についての話です。

さきほどの、「荷物を持って家に帰る」シーンでは、この出来事としての存在感があると思いました。

こういった存在感をだすためにはどうすればよいのか?

こういった、存在感を出すためには、普段何かを描く時に、ちょっと心がける必要があるとおもいました。

それは、自分が言葉で、こういうことを描こうと思って絵にするときに、その動きを自分でやってみることです。

ほんとうは、普段から見て、頭に入れておけばいいんですが。

なぜ、それが必要かというと言葉で「ここは、こういう絵をだいたい描くぞ」と思ったときに、想像出来ることが限られているとおもったからです。

それがなぜダメかというと、想像できることしか描けないからです。極端に言うと、自分が描いたようことしか描けません。もしくはどこかで見たような絵。記号的な絵になってしまいます。

記号的な絵というのは、例えば、「考えているとき」は「手を顎につけて、腕組みする」といったような絵になってしまいます。つまり、今回のマンガの2コマめです。

1コマめは観察して

心がけて描いてみたのは1コマめです。

「何かを描いているところ」を描こうと思いました。「ボールペンの芯を出す」ところまでは頭で想像しましたが、そのあとは自分で実際にやってみました。

それで、なにが変わったかというと、手の角度です。おそらく何も観察せずに描いしまうと、ボールペンの先が下を向いて、親指で押している絵を描いたと思います。しかし、現実に自分がやっていたことは、水平くらいにしてカチッと押すという行為でした。

自分でも、なぜそんなことをしているんだろうと、あとから考えてみると、先っちょが書ける状態になったのか確認していたんだなーと気づきました。

出てきたことを確認するために、ペンを水平に近く持ち、見える位置でだしていることに気づきました。

同じように4コマめは、なにかヒマだと、物の端っこを持ってプラプラさせるということに気づきました。これも、想像を超えていました。

持てるか持てないかのようなぎりぎりのところで、ペンを持っているへんてこな行為を、自分が描こうとしても「ペンを持ってひまそうにしている」という言葉だけからは、やはり想像できないので描けないんですね。

同様に、少し前に描いた冷蔵庫のときも、開けるときに、ほぼ人差し指だけ冷蔵庫をあけていた(『小さく学ぶ18 〜変化させたら変化して、離れて戻ってもその状態のまま〜』)ことにも気づいたことがありました。

さて、こういったときに、自分が探しているのは、「へんてこな行為」です。なにか変な行為です。言葉から想像できない、へんてこな行為。

へんてこな行為を普通に行なっている

へんてこというのは、本来「通常ではない」ということです。変わっているということですので。

ところが、実はそのへんてこな行為を普通に自分は行っているのです。だから、ペンを水平にするのもそうだし、人差し指で冷蔵庫を開けたり、ペンの端っこを持ってプラプラさせたりしていることに、存在感を感じるのだと思います。

だから、言葉から安易に想像して描かれたものは、逆に変なものにみえてしまうこともあるんだと思います。

やっていて一番楽しいのは、言葉で想像できたことと違うことがみつかり、それがおもしろさにつながるところです。また、言葉から想像出来ることのバリエーションが豊かになることも楽しいです。

人間と物体が関わっていると、動きが現れやすい

何回かやってみて思ったのは、人間と物体が関わっていると、動きが描きやすいです。ほんとは人だけでもそれなりにあるはずですが、人と物が関わるところに仕草が生まれるのだと思いました。

ということで、置き換えている人は置き換えて読んでいたと思いますが、作られたものと人間のインタラクションは両方とも影響しあっているということです。「仕草」のようなものは、人だけみていても、物だけみていてもだめ、人と物が組み合わさったときにはじめて、現れるものなのかなーと思いました。

ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]
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ふとふり返ると―近藤喜文画文集
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2010年08月13日 01:31Fujii

小さく学ぶ19 〜動かした場所にちゃんとある〜

20100807.jpg小さく学ぶ18 〜変化させたら変化して、離れて戻ってもその状態のまま〜』 の続きです。

残っているんですね。

そうめんのつゆの話だとそれこそ当たり前に感じます。物がそこにあって、動かしたら動くけど、動かした場所にはちゃんとある。といったことは普通でしょう。

UIに映し出されるものは、そういうものばかりではなく、画面が変わったらまた元に戻ってしまったりするものも多いでしょう。

2010年08月12日 00:59Fujii

小さく学ぶ18 〜変化させたら変化して、離れて戻ってもその状態のまま〜

20100806.jpg小さく学ぶ17 〜現在の状態をあらわす表現〜』の続きです。

UIに映し出されるものを、ひとつの世界とするならばと考えてみました。

というかそれ自体は、何年も前から考えているんですが、絵にしてみました。

なんというかこういった仕事をするようになったときにも、構造化することからしかはじまってないとしか言いようがないんですが、 それは、やはり一枚の絵でもそこに世界があることが前提となるマンガのようなものをバックグラウンドに持っているからかもしれません。

構造化すること自体はスタート地点です。

『ポニョはこうして生まれた』でアニメーションのつくる過程を見てなおさら強化された部分もあります。(『「物体としての存在感」とは?そのシステムにはある? 』)

宮崎監督の言葉を借りるならば、そこに、世界があって、それを写しとっているということです。

もちろん、UIに映し出されるものが、マンガやアニメーションで描かれる世界と全く同じではありませんが、考え方の方向はごくごく当たり前で受け入れやすいと感じることも多いことは確かです。

前置きが長くなりましたが、前回に描いた、そうめんのつゆの例を描いてみました。変化させたら変化して、離れて戻ってもその状態であるということを描いてみました。

2010年08月11日 01:36Fujii

小さく学ぶ17 〜現在の状態をあらわす表現〜

20100805.jpg

現在の状態をどう表すのか?

お昼を、そうめん、冷やし中華、そばの中から選ぶときは、現在の状態というのはありません。

しかし、設定等の場合は、少し違います。

現在どの選択肢が選ばれているかが存在します。

例えば、そうめんのつゆをどこに入れておくか?でいうと、冷蔵庫を選んだのであれば、現状は冷蔵庫にあります。選択肢として、戸棚、箱、冷蔵庫とあったとしても、今は冷蔵庫にはいっていたりします。

2010年08月10日 01:21Fujii

小さく学ぶ16 〜選択肢が3つ以下の場合、3つより多い場合〜

20100804.jpg

小さく学ぶ15 〜「選ぶ」とは、対象と選択肢の2つがセット〜』の続きです。

2つの演出方法がありました・

選択肢が3つ以下の場合

オンとオフ、または、1曲、すべて、オフのような場合は、ボタンを押すごとに表示がグルグルと切り替わります。

どんな選択肢があるのか押してみないと分かりません。表示されるものは1件なので、比べることもできません。

選択肢が4つ以上の場合

選択肢がならんでいる状態に移ります。

ここでのポイントは、今選択さている項目の上にフォーカスされています。

選択肢から何かを選んだときには自動的にその前の状態に戻ります。

選択するといっても

大抵今までの現在の状態をどう表すのか?

も考える必要がありますね。

2010年08月09日 00:18Fujii

小さく学ぶ15 〜「選ぶ」とは、対象と選択肢の2つがセット〜

20100803.jpg

小さく学ぶ14 〜UIの小さな部分だがユーザの行動を変えてしまう〜』の続きです。

「選ぶ」って何?

実際に調べる前に「選ぶ」って何か考えてみます。

頻繁に選んでいる感覚はあると思いますが、「選ぶ」とは何で構成されているか?考えてみました。

対象と選択肢

ということで、漫画に書いたように「お昼に食べるものを選ぶ」という例で考えると、

  1. 対象
  2. 選択肢

この2つで出来ているようです。

お昼に食べるものが「対象」

そうめん、冷やし中華、そばが「選択肢」です。

昔、そんなに面白くない「トレインスポッティング」という映画がありました。そのキャッチコピーが、確か「choose your life」とかだったと思います。「人生を選べ」になるかもしれませんが、これは、対象です。そして、選択肢はコピーの中には書かれていません。このコピーの1文には、どう選ぶかは載っていないということですね。

選ぶといっても、対象と選択肢の2つをセットに考えてみることにします。

続きは次回。

2010年08月06日 01:57Fujii

理解出来ない得体のしれないものを目の前にしたときなど、複雑であったり多面であるものとずっと対峙するのは結構怖い

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ユーザーはわかりやすい?人間はわかりやすい?出来事はわかりやすい?

ふと、ドキュメンタリー映画が好きな理由を考えてみました。

すぐに出てきたのは、悪役がいなかったり、物語のロジック上必要な出来事などがないため、多面的で、複雑さがそのまま表現されていることが多いからかなと思いました。

多面で複雑、これがわかるからおもしろいのかもしれません。

表もあれば裏もある、表にも裏にも入らないようないろいろな面がある。そこにひかれるのかもしれません。

それはユーザーも、人間も、出来事も。

レッテルを貼りたがる人

時々、レッテルを貼りたがる人というのがいます。なぜかなと観察してみました。

気がついたのは、そういった人は、貼ったレッテルと合わないことがおきると、混乱してしまうようでした。

そして、そのこと自体を受け入れることができないこともあります。

そういったレッテルが崩れたときに戸惑ったり意地になったりするのをみると、そのレッテル自体がとても大事なのかなと思いました。

複雑であったり多面であるものとずっと対峙するのは結構怖い

よくよく考えてみると、その貼ったレッテルをもとに、論を展開(転回?)していることが多いのです。

つまり、理解出来ない得体のしれないものを目の前にしたときなど、複雑であったり多面であるものとずっと対峙するのは結構怖い。

例えば、能面のように、何を考えているかわからないものに恐怖を感じるのに似たように、理解出来ないものと対峙できないのではないかと。

さっさとレッテルを貼ってしまえば安心して考えることができます。

レッテル上にポジティブなものやネガティブなものが積み上げられていく

考える先は、ネガティブなこともあれば、ポジティブなこともあります。ただ、複雑さを避けているという意味では同じ部分もあります。

ポジティブの例でいうと、世界的に有名な監督なら、人格的にも優れていると思うことなどです。

なので、そのレッテルにあわないことがあっても、なんとか剥がさないようにがんばるのではないかと思いました。

たまに、そのレッテルを貼ったことすら忘れる人にも遭遇しますが、大抵の人は、時々あれ、思ってたのと違うかなとか、見方が偏ってたかなとか日々調整するものです。

このブログのテーマに関係する話に無理やりするとすればユーザビリティなどそういったことに携わるのであれば、少なくともそういった視点は少し必要なのかななんて思いました。

そんなこというと、どんな業界でも必要だよと言われてしまいそうですね。

そもそも今回なぜドキュメンタリーについてふと思ったのか?

といいつつも、ドキュメンタリーのことをなぜふと考えたのかというと、最近、起きた事件を聞いたときに、ふとある歌を思い出したのがきっかけです。わかりやすい歌詞よりも好きなのは、自分がドキュメンタリーが持つ要素を好きな理由と似ているからかもしれないと思ったのでした。

人間や出来事は色々あるってことですね。ほんとに色々。どう考えても多面。

でもって、人間は意外と多面で見て欲しいって人は多いんじゃないかなーなんてことも思いました。

2010年08月05日 02:09Fujii

小さく学ぶ14 〜UIの小さな部分だがユーザの行動を変えてしまう〜

20100801.jpg

 

画面に映し出されたものから判断

小さく学ぶ13 〜「続き」「決定」に関するUI設計の演出方法を携帯電話と比較〜』の続きです。

前回は、携帯電話との比較をしてみました。

画面上に印がある場合は、印の有無で、自分が押したあとに続きがあるのか、それとも決定されるのか?が判断できます。

この時使うのは1つのボタンです。

画面に映し出されたものから判断します。

画面の案内を見て、手元を見てボタンを押す

ケータイの方はというと画面の下の方に、決定という文字があります。

これが手元のキーと対応しておりどのキーを押すと何が起こるのか?つまり、この場合決定したいときは左上のボタンを押してくださいという説明になっているらしいのです。

その結果、画面の案内を見て、手元を見てボタンを押すという事になっていました。

印という小さなものでも、ユーザーの行動を大きく変える

まず、一貫して印があるものとないものの動きを揃えていることによって、成り立っています。単にひとつのシーンで印があるかないかということだけではないという話です

印ひとつで、ユーザーが手元を見ながら操作するのか、それとも、画面を見て手元はほとんど見ずに操作するのか?という大きな違いが生まれてきます。

印がなかったがために、こんなやりとりがうまれたのかもしれません。

「決定かどうかがわかりません別にしましょう」

「この左上のボタンがあいている」

「いいですね、勿体無いと思ってたんです」

「そのかわり対応付けがわからないので、画面の下に表示させましょう」

「うむ」

というやりとりの末にできたのかと思われます。