2010年06月29日 01:50Fujii

星は夜に見る

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夜バージョンです。

同じような絵(『二周年(過ぎてた)』)でも、ある部分を目立たなくすることで、目立ち方が変わってきます。

UI上の要素の表現にもつながります。目立たせたいものを決めて差をつける。全部が明るいと目立たないけれど、夜の明かりは目立ちます。

こういった基本的なことを絵を見て思い出していたんですが、数人ではなく関わる人の多くが理解しているのか?という点は、もうちょっと別の問題であったりします。

ユーザビリティテストがなぜ良いのかと思うと、少なくとも会議の場をユーザーの使用状況に近づけるからだと思います。

特に、紙一枚で動きが全く考慮されない会議でUIの良し悪しを判断するレベルから、一歩前進するからです。

意識がどこにあるかという問題なので、ユーザビリティテストをやらなくても、会議の参加者の多くがユーザーを意識していればいいですが、なかなかそうはなりません。で、物理的に近くで作るというのが処方せんになるのではないかと思うことがあります。

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二周年(過ぎてた)

2010年06月26日 22:45Fujii

二周年(過ぎてた)

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気がつけば、ブログをはじめて2年が過ぎてた!

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他、ちょぼちょぼ登録いただいているようです。

去年と比べると微増!(「ユーザビリティ」と直接関係ないことが増えてきていますが、興味なくなったら適当に解除してくださいね。)

意外とあきずにゆるゆると続いてます。

しかし2年という短い期間ですが、よくよく考えれば、ちょっとしたことをきっかけにして描いることに気が付きました。

このブログの成分は、描く刺激を頂いたありとあらゆる人と出来事が含まれているんですねと、再確認。せっかくなので感謝!

(面識ないけどタケダヒデヒロさん、ブログを描くきっかけを頂いた棚橋さん、参加してないけど情報デザインフォーラム、隠れたおもしろい本を紹介していただいたボス、知り合いひとりもいないけどスタジオジブリ、よく話す友人達、会社の人!ついったーでつぶやいている人!なんだかよくわからないけどネタになるスノーボード、お笑い!スポーツ!石打丸山ほかスキー場、江戸東京たてもの園、大阪、京都、東京、日本の美しい風景とチープで当たり前の風景とか物、マイカメラGX100!と、安すぎるソフトウェア TOYCAMERA ANALOG COLOR 、無印、ボールペンに水性ペン、海、映画!納豆!と鍋!などなど順不同!)

全部ありがたやありがたや!

どうぞこれからも、気が向いたときにお立ち寄り頂ければ幸いです。

では、ある日突然やめるかもしれませんが、それまではお付き合いください。

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2010年06月23日 23:21Fujii

1、2、3と続く数字のように、なにもしなくても4が出てくると思ってしまうけれど

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参考にする例がない状態で何かをやる

参考にする例がない状態で何かをやるってどういうことだろう?なんてことを考えていたら、なんかするすると描いてしまいました。

とはいっても、このマンガブログはこのような感覚ではない。もうちょっとゆるい感じ。

ただ、ストーリーのあるものを描いているときは、この感覚に近いかもしれない。

自分で描いたものをヒントにしたりしながら進めていく。進めていくといってもなにか決まったものは特にない。なぞるものも特にない。

今まで描いてきたから、先に描くものが決まっているわけでもない。

なんとなくそんな感じ。

どうなるかわからない

「ポニョはこうして生まれた」でインタビュアーがよく、「次は?」とか「進んでますか?」とかきいていて、その質問に監督が苛立っているシーンがあった。

僕も監督は湯水の如き湧き出るイマジネーションで、ついつい自然に作れてしまうのかもしれないと錯覚することがある。

「次回作はなんだろう?」なんて、秋になれば収穫できるかのように、なんとなくそんな風に感じてしまうことがある。

ところが、ドキュメンタリーをみると「わからない」「やってみないとわからない」「自分でもつかめていないから」という言葉が頻繁にでてくる。

インタビュアーは、必死に何かしら、現段階の行為に意味付けをしようとするが噛み合わない。これは、このドキュメンタリーに出てくるメインのインタビュアー以外の人とのやりとりでもそう。

作品につながるのかどうかすら、わからない。

これを聞くと不安になるんだと思う。つながりが明確ではないので、インタビュアーは、なんとか「こういった一見無駄なことを活かすんですね」とフレームにいれて、不安を解消しようとする。もしくは、ドラマチックにしようとする。

しかし、実際はその時やっていることが役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。

どうなるかわからない。

これが、本当のところ。なので、少しずれてくるのかななんて思った。

周りから見ると1、2、3と続く数字のように、なにもしなくても4が出てくると思ってしまうけれど、本人は先はみえないし、自分が何もしなければ進まないという状況から見ているから苛立つのだと思う。

そんな感覚を思いながら描いたけど、こんな「まっすぐ」進むものじゃないと、ちょっと思った。

(でも、自分のお気に入りに一枚になりそうな予感もちょっとある。)

「ポニョはこうして生まれた関連」の記事:

ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]
ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]

2010年06月22日 22:33Fujii

調査と観察、世界に対する知識

20100612.jpg

何もしていないような時間の中で、観察

下手すれば家につくまで液晶画面とにらめっこしているのに「観察が大事だ」というのも奇妙なことだと思うくらいなにかピコーンときました。

『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』は、描いている場面以外は、何気ない散歩のシーンであったりします。

しかし、なぜ描けるのか?と逆に考えると、何もしていないような時間の中で、観察しているからです。

普段から、観察している。

このドキュメンタリーに出てくる監督をはじめとするアニメーターの方を見ていて、普段から観察しているから動きについて考えることができるし、たとえ描けなくても「こうではないな」というのがわかるのではないか?と思いました。

ドキュメンタリーでも大半のシーンは、何かを描いていたり、語ったりするシーンです。

おそらく、観察している、もしくは観ている状態というのは、周りから見るとたんになにかを見つめている、眺めているだけにしか見えないからカットされているのだと思います。

しかし、これほどの圧倒的なアウトプットを見せられてしまうと、そのインプット元の実際の世界が、とても多くの情報に溢れているのだと改めて考えさせられてしまいます。

アニメーターの方が世界を観て捉えているものごとのほとんどを、自分の場合残念ながらスルーしているんだと思いました。

世界のどの部分も見ていないわけではないので、アニメーターの方が作り終わったものを見たときに、理由はわからずに「これはすごい!」と感じたり、「これよりは、こっちのほうがすごい!」と感じることはできるんですが。(その話はこちらで『はっきりと意識しないことも感じ取っているということ』)

「世界に対する知識なんだよ」

『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』

と監督は語りながら描いていました。

調査と観察

スタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんが自身の番組の『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』 の中で海外の映画プロデューサーのマーク・ジョンソンさんとの対談中でに話していました。(この鈴木敏夫さんは聴いてる方はわかるとおもいますが意図的にキャッチーな言葉を選ぶので断定的ですが)こんな会話です。

鈴木敏夫さん「観察して描くんです」

マーク・ジョンソンさん「ほんとうですか?実際にリサーチで、観察ということですか?」

(略)

鈴木敏夫さん「リアリティのために、見たもの、聞いたものもあつめますけど、それ以外にどっかかならず取材に行きます」

【Podcast】2008/05/21 【号外】 ナルニアとジブリ。2つの森に隠された秘密とは?

「調査と観察」が出てきています。手法に名前はないし、付ける必要も感じませんが、デザイン思考とかHCDなどでも出てくるなにやら聞いたことのある単語ですよね。

最終的なアウトプットはスタジオジブリのぶっとんだレベルなので比べようもないんですが、観察から何かを生み出すというのは昔から行われていることなんだなーと思います。

世界には情報があふれている

すごいアウトプットを生み出すアニメーターの方々と同じものを見ているはずなので、もうちょっと世界をよくみてみようと思ったのでした。

すくなくとも、世界には情報があふれていて捉えられる人には捉えられるんだなーと、しみじみ。

ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]
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2010年06月18日 01:18Fujii

惹きつけるストーリーテリング 〜物語のなかのゲーム性〜

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ストーリー、物語ってなんだろう?

「ストーリーのある商品の提案」とか、「生活の中で物語を生むことを考えだサービス」とかいう言い方の中に出てきますが、「ストーリー」とか「物語」ってなんだろう?と考えてみました。

色々考えていて、細かいところは省きますが、こどもに「物語をひとつきかせて」と言われたと思って読んでみるといいかもしれません。

「固い話」と「柔らかい話」

物語には「固さ」があると思っています。「固さ」とはなにか?というと、どういう話なのかがわかりやすいということです。導入部分で「あ、こういう話か」とわかるかどうかです。

例えば、

「猫が一匹います。右へ歩いて、左に歩いて、寝転んで」

というのはどうでしょうか?

文章にはなっていますが、物語ではありません。時間軸のシークエンスがあるだけです。

こういったタイプを「柔らかい話」といいます。

掴み所が無く、ぐにゃぐにゃしてて「で?」と思ってしまうようなタイプ。

では、その逆はどんなだろう?と考えて次の例を思い浮かべました。

「猫が一匹います。お腹をすかせた猫は数日間何も食べていません。そのときある家のなかからとてもいいにおいがしました。家の中には焼きたてのさんま。しかしおばあちゃんがすぐそばにいます...」

これを「固い話」といいます。がちっときいてて、何かがわかります。

この先話が正確にどうなるかはわかりませんが、土台ができます。僕はこう思いました。

まず、どうあがいても人間は「固い話」のほうにひきよせられます。

現実の話かつくり話かはもちろん関係ありません。

「柔らかい」話は、自分が何か意味を見出ださないと苦痛です。わかりにくく、不安になったり、退屈だったり、消化不良な感じがしてくるのです。

では、なぜ二番目の話のほうが「固い」のか?

物語の「固さ」に関係あることはいろいろあると思います。

その中でも密接にかかわるのが「ゲーム性」です。物語になるかどうか自体にゲーム性が深く関係していると思います。

ゲームの3要素

その要素は、3つ。

猫の話の例だとお腹すかせた猫が「さんまを食べる」というゴールがあり、それをおばあちゃんが「妨げる」というゲームだとわかるというか見えてくる。これが心地良さを生みます。

ゲームが見えるとは、ルールも見えるということ。猫のゴールは「さんま」以外にはない。窓がしまっていると近づけない、おばあちゃんに見つかればたたき出される、もちろん壁に当たればぶつかる、おばあちゃんは猫と話せないなど。

  1. ゴール
  2. 妨げ
  3. ルール

これが、ゲームの要素です。ゲームの詳細な展開は分かる必要はないですが、こういったゲームであるということがわかると引き寄せられるのだと思いました。

「はやぶさ」のなかのゲーム性

探査機「はやぶさ」の話は、「遠くの星『イトカワ』に行って砂を持ち帰ってくる。」というゴール、「故障、トラブル」という妨げ、地球からはるか遠くで直接故障を修理することができない、切り離しに失敗すれば砂は手に入らないなどのルールがあります。そういったゲーム性があるから、予想をしたり、ドキドキしたりできるのです。

仮に、「砂を持ち帰る」という目的は別に無く、トラブルもなく、故障したとしてもすぐになおせそうだったり、切り離しということも必要なかったり、切り離しに失敗しても「砂」は別の手段で手に入るらしかったりあいまいだとしたら、引きつけられる度合いは減るかもしれません。

これは、ゲームが不明瞭だからです。ゲームがなかったりあいまいだと人は、不安になり居心地の悪さを感じます。そうきいて『ポニョ』を思い出した方もいるかもしれません。

ゴールが見えていて、それを達成することを妨げる要素がある。はやぶさをみてて思ったのはとてもど真ん中の構造のお話だということ。なので、興味をもたれないような難解な技術の分野にも関わらずはいりこみやすかったのかななんて思いました。

物語は妨げをどんどん終盤に向かって作っていくものです。瀕死寸前で帰ってくる探査機というのは失敗にとても近い位置、いつ計画が水泡に帰すかわからない、ゴールとは逆に振れているという状態というのも引きつけられる要因ですが、これは導入というよりも展開の部分になります。(展開の話は、また別の機会に。)

しかし大事なのは、瀕死寸前、失敗しそうと認識出来るのは、そもそもゲームが見えているからです。おそらく、多くの人がゲームを理解し、ゴールを達成できず失敗しかける要素にひきこまれるのかなと。科学的な技術の詳細がわかってひきこまれるわけではないと思います。

物語とゲーム性

スポーツ漫画のように直接わかりやすいものだけにゲーム性があるわけではないと思いました。

漫画の「ワンピース」。これはRPG。仲間を集めて、宝を探す。敵がいて、すぐには見つからない場所にある。そして、無敵の主人公も水の中では弱い。
「ドラゴンボール」も、七つ集めると願いを叶える龍がでてくるというルールがあり、ゴールは揃えること。妨げとなる敵もでてきます。

古くは、昔話の桃太郎や西遊記もあります。

最後に

と、さんざん物語の話しをしていたんですが、最近ドキュメンタリーが好きなんです、実は。
ゲームのルールも展開も分からないから逆におもしろいのかもしれません。

そういえば宇宙つながりで思い出してふと探してみましたが「度胸星」復刊したみたいです。わーい。

度胸星(1) (KCデラックス)
度胸星(1) (KCデラックス)

度胸星(2) (KCデラックス)
度胸星(2) (KCデラックス)

度胸星(3) (KCデラックス)
度胸星(3) (KCデラックス)

度胸星(4) <完> (KCデラックス)
度胸星(4) <完> (KCデラックス)

絵がないのでこれも載せておこう。「へうげもの」描いた方です。

度胸星 (01) (ヤングサンデーコミックス)
度胸星 (01) (ヤングサンデーコミックス)

2010年06月15日 02:39Fujii

UI設計でどんどん要素が増えてしまう件

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「減らして減らして必要そうでもつけなくて、どうしても必要ならつけてみる

UIで起こる問題の8割は詰め込みすぎが原因である

なんてのはわかりませんが、最初の一歩であり、すごく大事なポイントなんじゃないかと思って描いてみました。

個別の事例に対しての解決策とは違うと思いますが、個別の問題が出てきた時に、自分がどっちを向いて対処するのか?もしくはチームがどっちを向いて対処するのか?

あさっての方向を向いていることも意外と多かったりするんじゃないかと思います。

そういう意味で、

「減らして減らして必要そうでもつけなくて、どうしても必要ならつけてみる、もう一度とって考えて、いいつけ方を考えて、良さそうならば一息ついて、まだ必要そうなら置いてみる」

という方向はとても大事ではないかと思います。

まず、なぜかというと、UI上の要素は基本的には増え続ける運命にあるからです。

例えばこんなケース。

関わる人が増えると要素が増える例

関わる人がひとり増えると、要素が増えます。二人で考えるとどうしても、参加者の意見を一応入れておこうとなるからです。

ひとりであればバッサリ捨てられるはずのことも、面と向かってはいいにくい。そんな心理が働きます。ひとりが減らそう減らそうと思っていても、ひとりが加わればプラスマイナスゼロ、もう一人加われば、もしかしたら、要素が増える方向に傾いていくかもしれません。

機能追加で要素が増える例

新しい機能を作ったから使えるようにしたい。現状の画面のどこかにボタンをおいてくれないか?と。一見普通の事のように見えるかもしれませんが、実は落とし穴があります。

例えば、ギターを弾けるようになったから、オーケストラにギターを追加してくれないか?というのと似ています。また別の日に、今すでにあるピアノとはちょっと違うピアノをまた加えてくれないか?と、もしも毎日つづいていたらおかしなことになるのは目にみえています。

オーケストラの場合、個別のものがそれぞれ集まったとしても、全体のなかでどんな役割を果すのかが無ければ良くならないどころか崩壊してしまいます。

これはUI設計でも言えることだと思います。

変な見方をすればこうも考えられます。

ほうっておくと、機能追加で要素が増えて、崩壊していきます。例えばライバルの企業も何もしなければ、ほぼ間違いなくこの道をたどると思っていいのではないでしょうか?

そこには、理由があります。

売り文句優先で増える例

売り込むときに、これもできますよ、あれもできますよと機能を言いたいという圧力が自然発生するからです。

「個々のものを集合させれば、うまくあわさって全部足したすごいものになる」と考える場合はなおさらです。機能を数字のように考える場合は、「足していくと合計値が上がる」そんな風に捉えるかもしれません。

映画のキャッチコピーで、「アクションあり、笑いあり、アニメで、実写、恋愛もあれば、戦いもあり、主役が10人いて、ホラーでファンタジーなドキュメンタリー、12か国語で字幕が出ます。」となってしまったらおかしいですよね。

これがおかしいことはほとんどの人がわかりますが、UI設計になるとわからなくなる。

映画で、シーンの順番が大事なのはわかります。新しいシーンを作ったから最後に足してくれ。もしくは最初でもいいぞ。なんてことにはそんなにならない。映画とは時間軸のあるものだというのが浸透しているからかもしれません。

同じようにUIを見ることができないのはなぜか?

UI設計でもいえるのは、要素の集合が、そのまま唯一の合計の値になるわけではない

その理由の1つは、「そもそも要素の集合体として見ていて、そういったものだと捉えたことがない」ということかもしれません。

なので、今回のことはごくごく当たり前のことだと思うんですが、やっぱりとても大事なんではないかとおもって描いてみました。

「UI設計も要素の集合が、そのまま合計の値になるわけではない」ということを常に頭に入れておくといいのかなと思っています。

ライト、ついてますか―問題発見の人間学
ライト、ついてますか―問題発見の人間学

2010年06月12日 04:09Fujii

UIを学習しやすくするための秩序を言葉以外の方法で伝える

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言葉以外で伝える

今回は、理解のためのツールの話です。以前に『言葉以外の情報に目を向ける』 なんてことも描きました。このときは、単に自分の話ですが、ユーザーという状態でも実は言葉以外で状況を把握することがあります。

UI設計はほとんどがトレードオフです。限られたスペースをどう使って、優先順位をどうつけていくのか?ということがとても多いです。

なので、言葉以外でもユーザーに何か伝えることが出来る方法があれば使っていかなくてはいけないのだと思います。

ユーザーの学習フェーズ

ユーザビリティテストでは、ユーザーが新しいUIに接したときに、学習するフェーズが見受けられます。

「あれ?ここがこうなって、こういうことか」とか「ん?あー、で、ここがこうだから、今度はこう」とか言いながら、使い方を学習していきます。

このときに、ユーザーはなにかUIに規則性を見出そうとしています。

なので、作る側が秩序だったルールを持っていないと、ユーザーは混乱してしまいます。

ユーザーが、操作しながら、なにか規則性を見つけようとしても結局、「わからない」で終わってしまうんだろうとおもいます。

こういった規則性というのは、ユーザーはなんかわからなかったということは言えますが、言葉以外の情報なので、ユーザーにどうしたらいい?と聞いたとしても、でてこないようなことです。

残念ながら、ユーザーにどうしたらいい?ときいて返ってくる答えの多くは、「ここに、やりたいことのラベルが書かれた大きいボタンがあればいい」ということになってしまうのです。

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人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学 (新曜社認知科学選書)
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2010年06月11日 02:45Fujii

UIと人間のコミュニケーション、UIのなかに重力を作ろう

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目の前にいた人の様子が面白いと思ってこないだ描いてみたんですが、ユーザビリティと全く関係がありません。

ところが、このブログのテーマは一応ユーザビリティなので、こじつける必要があります。

ということで、以下の6つの基本的な欲求の観点から、つくったものをチェックしてみてはいかがでしょうか?

  1. 楽しいゴールに向かいたいという欲求
  2. 状態が変わらないことに対して同じアプローチをとり続けたくないという欲求
  3. 全く別のことでも、自分の行動に対してフィードバックを知りたいという欲求
  4. ほかの人の様子を知りたい欲求
  5. 自分が取り組んでいる対象を明確にしたい欲求
  6. 残りの量を把握したい欲求

楽しいことを提示する

「ビールを飲もうかな」という行動から、今のフェーズが終わったあとのことを考えているようです。楽しいことが後であるんだとイメージすることで、パワーが生まれます。

楽しいことがあとでまっていると思いたい欲求

中身は大事、だけど、中身を感じるのは外側から、どこまでいっても表面しかない

わからないと眠くなる。

意外とこれは難しいですね。なぜ眠くなるのでしょうか?理解できなかったり頭に入らないと眠くなるのはなんでなんでしょうか?

とりあえず、どんなに中身があったとしても、やはり、読んだ時に目にしているものがうまく作用しないと寝てしまいます。

ほんとは、どこまでいっても表面しかないんです。

進まないことをしたくないという欲求、もっというと状態が変わらないことに対して同じアプローチをとり続けたくないという欲求ですね。

他のことをする

これは、どういうことか?人間は二つのことをやりたいのか?と思いましたが、実はこういう事なのではないかと思います。

わからないから他のことをやりたい。わからないから進まない。だからほかのことをやりたい。ということなのかもと思いました。

なにか、進んでいる感覚が少しでもあるものをやりたいのではないかと思います。

進んでいる感じ、それがパワーを生みます。

進んでいることを実感したいという欲求、ここでいう進んでいるというのは、自分の行動に対して、変化があるなど小さなことでもいいんだと思います。

全く別のことでも、自分の行動に対してフィードバックを知りたいという欲求です。

人の邪魔をする、他人の様子をみる

自分と同じ人がどんな様子でやっているのか?知りたい。これは人間のコミュニケーションでもありますが、ひとつの取り組みに対して、人がどんな捉え方をしているのか知りたいんだと思います。

ほかの人の様子を知りたい欲求

声に出してみる

思っていることを口に出します。または音読したり。

これはどういうことなのか?自分が読むことでなんとか集中したい。

自分が口にしたことに対して、自分自身がそこに集中していたいという願望なのかもしれません。

大抵ひとりごとはひとりのときにいうものではないので、近くに人がいることが関係しています。

口にすることで客観的にみるのかもしれません。

自分が取り組んでいる対象を明確にしたい欲求です。

残りの分量の確認

これは、全体の中でどれだけ進んでいて後どれくらいで終わるか知りたいからですね。

残りの量を把握したい欲求

まとめ

さて、今回6つの欲求を書き出して思ったんですが、短期的には、自分の行動に対するフィードバックはあるか?目の前の対象は何であるか?自分の状態が進んでいるのか?自分のやり方はあっているのか?どの程度進んでいるのか?といったことを気にしているようです。これは、UIの設計の話に置き換えると、

  1. 操作に対してフィードバックがあるか?
  2. 操作の対象が明確か?
  3. 規則性があり学習したり、操作方法を習得出来ている実感があるか?
  4. 現在のステップはどこなのか?

ということになるかなと。

前にも書きましたが、物理的なものであれば重力があり、物体としての制約など、使う人はすでに毎日経験していることから予想することができます。

ところが、UI、いわゆるコンピュータの画面はそれがありません。なので、作り手が意識して、画面内に重力にあたるものを作っていかなければいけないんだと思います。

そうしないと、壊れていくと思います。というか、最初は無秩序で壊れている状態といったほうがいいかもしれません。

そこに、重力を作っていく。

ほんとに重力を作るわけではありませんが、こうなったらこうなるという世界をそこに作っているんだと思うと少しロマンチックでもあります。

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ノンデザイナーズ・デザインブック [フルカラー新装増補版]
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2010年06月10日 00:34Fujii

自分勝手 − 迷惑 = X

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例えば、同じことを身につけるときに、勉めて強いることに価値を置く人がいるのはなぜでしょうか?

苦労をして身につけた。

苦労しないと身につかない。

この2つを混同するということが、とても大きなことなのかもしれません。

赤い服を着た足の早い人がいる。

赤い服を着ると足が早くなる。

たぶん、こういった簡単な違いがわからないのがまた人間なのかもしれません。

勉強と学習

自分でも大して使い分けてはいませんが、ちょっと違います。この二つの言葉。

学ぶ、習うは自分から

勉め強いるはまわりから

そんな違いです。

デザインに哲学が求められている

デザインの最上流としてコンセプト、目標、ゴール、その上には、それをどうやって思いつくのかが必要になり、そこに哲学がでてきたりします。

こういったことを考えていて、こういったことが大事だと思っている。なので、こういうことをしよう。

単純にいうとそんなことだと思います。これがないと確かにコンセプトも生まれにくいかもしれません。

こういうことをしよう。

「こういうことをしよう」

なんか、とてもシンプルな言葉です。

僕は、

「自分でやる」ときに使われるパワーと同じパワーが、ここでも使われている。

そう思います。

「勉めて強いる」ときに削り取られて行く部分ですね。

「こういったことを考えていて、こういったことが大事だと思っている。」という部分は、実は大事ではありません。

大事なんですが、それを確かめるために、「こういうことをしよう」と考えて色々方向修正するものなのです。

じゃあ、自分勝手なエゴじゃないか?

「こういうことをしよう」というだけでは自分勝手な話じゃないか?とそう思う人もいるかも知れません。

でも、そうなんです。

そして、そこなんですね。

まわりにひどい迷惑をかけるとか、そういうのはあれですけど、もっとずいぶん前に「こういうことしよう」と思うことを忘れてしまっている。

たとえるならば、

自分勝手 − 迷惑 = X

というのがあるとすると、この X の部分です。

いなほ保育園の十二ヶ月
いなほ保育園の十二ヶ月

2010年06月09日 03:38Fujii

「強いる」にこだわらない

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人にやらされる状態と、自分でやる状態

この二つの状態について、勉強するときの視点と、なにかをつくるときの視点から考えてみたいと思います。

キーワードはモチベーションというと陳腐ですが、そのあたりになるのかもしれません。

勉強するときと、なにかをつくりだすことって一見関係がなさそうですが、自分の中でなにかつながっている気がします。

真っ最中は自分から

まず、何かを作る最中は、「自分からやる状態」になっている気がします。その前後には無理やりやらされることもあると思いますが、真っ最中は自分からやっていなければ何かをつくることはできないと思います。

勉強とは強いること

読んで字のごとく、「勉めを強いる」タイプだと自ずと限界がきます。

無理やりやらされていることを美徳としてしまうと、肝心な部分も「自分からやる状態」にはならないからです。

『いなほ保育園の十二ヶ月』という本では、字を覚えるときに、難しすぎてもダメ、簡単すぎてもダメ。いろいろ試行錯誤した結果こういう方法が出てきたそうです。

「は」ではじまる文章をつくる

その方法とは、

「は」ではじまる文章をつくる

たったこれだけなんですが、文章を組み立てたり、言葉を使うことにつながったそうです。

強いられている状態ではなく、自分から文章をつくるようになる。

そんな、こども達の状態の変化を読みながら、この状態こそが、なにかをつくっている状態に近いものだと思いました。勉強ではなくなっている状態。

遊んでいるのか、何をしているのかは置いておいて、強いることで達成しようとしたことが、別のことで達成できている。

なおかつ、強いることでは到底無理だった自分からやるということのスイッチが入っている点がとても注目に値します。

モチベーションとかいうとなんか安っぽいんですが、なんか引っかかりますね。

いなほ保育園の十二ヶ月
いなほ保育園の十二ヶ月

2010年06月08日 02:46Fujii

自分なりのインプットの最小単位を探さなければ何もはじまらない

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「何を」インプットとするのか

よくアウトプットのためにインプットを増やそうとか、アウトプットを意識して、インプットをしようとかいいます。

自分でもそう思ってるんですが、大事なことは、「何を」インプットとするのかなのではないか?と思ってきています。

なぜかというと、いくら最初に書いたことを心がけても、インプットの単位に満たないと、そのひとが感じれば見過ごされてしまうからです。

つまり、最小の単位のインプットが何かを考えることができれば、見過ごすことは減ってくるのではないかと思います。

インプットの最小単位

さて、どんなことになるのでしょうか?

よくいう、インプットとは、本を読むことです。

なにかを見たりすることもそうなります。

では、もっと小さいインプットはないでしょうか?

僕は、人の話を聞くこと。

人が何かすることを見ること。

なぜ?を考えること。

だと思います。

そして、目の前の人や物ごとだけでなく、自分のことというの視点もあり、これがもっと小さいと思います。

なぜ、こういうことをしたのか?

前はしなかったけど、するようになったのはなんでだろうか?

その行為を行った自分をインプットする

そういったこともインプットだと思います。

だから、まずわかってなくてもやってみるとか、書いてみるとか、描いてみるとか、そういったことも実はアウトプットを出すのではなくインプットのためのものだったりします。その行為を行った自分をインプットするということです。

さて、ひとそれぞれ、最小単位のインプットってあると思います。それは一体なんなんでしょうか?

関連記事:

情報と信号の違いって何?

20100520.jpg

本の名前は『考えなしの行動?』でした。

without_thought.jpg

近くにあるものを工夫して使うということ。

私たちは、意味付けをしていくということですね。

情報と信号の違いって何?

僕は、信号と情報という言葉は区別しようかなと思ってたりするんですが、情報は意味を持ったものなのかなと。ある人がそれに意味を感じたものが情報なのかなーなんて思っています。

つまり、片方の人が、情報を発信したと思っても、単なる信号にしかなっていなくて、受け取った人によっては意味をなさないこともあるんじゃないかと。

信号なので、何かチカチカしてるぞ、くらいはわかるけど意味をなさない。

これは、喩えでもあるし、実際にUI上に何かを配置しても、それがなんであるかわからないこともある。

チカチカさせても、それをどういう意味で受け取るのかにかかってきます。

また、機能の数だけボタンを増やしただけでは、なにがどうなっているのかわからなくなる。

ボタンの数だけ機能ががあることは、なんとなくわかるかもしれませんが、それ以上の意味を使う人が見いだせなければ、なかなかちゃんと使うことはできません。リモコンのように。

関連記事:

考えなしの行動?
考えなしの行動?

2010年06月04日 04:50Fujii

「大きさ」ということが持つ情報 とても『Hubble 3D』を見たいよ!

先に3回言っときます!僕見てません!僕見てません!僕まだ見てません!

よし。

20100519.jpg

「大きさ」という単純ながら興味深い情報

古来より独裁者は巨大な像をつくることが多いということを聞きます。大きさそのものがもつなんともいえない情報がそこにはあるんだと思います。奈良の大仏とかも大きいという事自体が持つ何かがある。そう思います。

以前に読んだ、『人はなぜコンピューターを人間として扱うか―「メディアの等式」の心理学』でも人間に影響を与える要素として、画質よりも大きさだったというようなことが描いてあったと思います。なんとなく、大仏とかを想像して妙に納得してしまったことがあります。

漫画家の井上雄彦さんも、普段の雑誌という小さいものにはどうしてもでない何かが大きい絵にはあるということを、以前に美術館で『最後のマンガ展』というものをやっていたときに言っていた気がします。

大きさ。シンプルだけど興味深いですね。

大きいものが見たい

きっかけは「アバター」でした。映画館について調べていたときに川崎のIMAXシアターがいいということになったのですが、その過程で、「IMAXといってもちいさいじゃないか」という声をききました。

僕は知らなかったのですが、調べてみると日本には昔IMAXというデカイスクリーンを持つ映画館が会ったとか。なので、最近のIMAXはIMAXデジタルと区別した方がいいとか。

で、これは見たい!と思ったのですが、調べてみるとほんとにでかい。アバターなんて見てる場合ではないと正直思ってしまいました。

川崎は非公開ですが、だいたいこのくらいだとか↓

imax_degital.png

IMAXデジタルは別にでかいというわけではなく、ほかに大きさでいうとこんなところも大きいらしいです↓

toho_screen7.png

で、さらにでかいのはココみたいです。最大級とか↓

toyosu_screen10.png

いやー大きいスクリーンってあるんだねと思って感心していて、デジタルでない昔日本にあったというIMAXシアターの大きさと比較してみました↓

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たしかに、でかい。これを見た人が怒るのはわかる。というか見てみたい!ともうアバターの上映館はどうでもよくなっていました。

調べると日本にもある。ミュージアムとかには残ってるらしいということでした。

しかし、大きい方のIMAXシアターには、上映作品がイマイチという欠点が。撮るのも色々大変みたいです!

うーん、残念だ。でも見たい!と思っているとこんなのを上映するとの情報が。

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Hubble 3D - Official Trailer [HD]

見たい。きれい。見たい。

(宇宙好きでないのですが)

こんなふうに見えるはずなんですよ!!!たぶん!

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この大阪のところが実は今年で閉館だそうです!もったいない!余計に観たくなるじゃないか!

ネットで見ても、宇宙のほう?海のほう?とか行ったら空いてたとか、カップルで行くと彼女が興味ない場合は寝るだろうとか、(うそです、ありました。Googole検索『hubble 3d 見ました』)ですが、見たい!これ見ながら寝ても最高じゃないか!

とネットの片隅で叫んでみます!

ハッブル!ハッブル!

人はなぜコンピューターを人間として扱うか―「メディアの等式」の心理学

生活の中で自分が見ているものはほんの少ししかない

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帰りのバスで降りた時にですね。ふと、「あれっ?」と思いました。

自分以外に誰も降りない。

で、なんで「あれっ?」と思ったかというとですね、当たり前のように降りたんですけど、よく考えると降車ボタンを押していないんです。

今まで、誰か降りるだろうと思って、誰かがボタンを押すのをチキンレースのように楽しんでいたりします。で、ぎりぎりになっても押される気配がないから、自分で押すと、意外と他の人も降りるんです。

なんだ考えていることは同じかと思っていたりしたんですが、前に、一人も降りなかった時があって、あぶないあぶないと思ったことがありました。

深夜に楽しようと思ってバスに乗っているのに、もう一つ先のバス停まで行ってしまうと大変です。そもそも、逆方向のバスが有るのかわからないですし。

で、そんなことを今日はすっかり忘れていました。ポッドキャストに夢中になってました。で、スルッと降りたときに違和感を感じたんです。

で、誰も押していないのに止まったってことは顔を覚えられてたんだ!とぱっと頭の中で考えました。

確かに、ここのところ帰りが遅いのでよく使っているなと。

それで、運転手さんがこの人はいつもあそこで降りるから、今日も押してないけど止まろうと思ったのだとすると、不思議なつながりを感じました。

僕のほうはというと、運転手さんの顔なんて全く覚えていないからこそなおさら不思議な気分になりました。

目の前に起こっていることでも、片方はよく見ていて、片方は全く見えていない。どんなに目の前で起こっていても、見えないということがあるんだろうと。生活の中で自分が見ているものはほんの少ししかない。
やはりそんなことがあるんだなと思いました。

もちろん、夜だから毎回バス停に止まることにしてるってことも考えられますが、気づかぬところで支えられてることってたくさんあるんだと思わせてくれた出来事でした。

2010年06月03日 03:59Fujii

『いなほ保育園の十二ヶ月』を読んで 自分で動けない人が増える理由

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テーマを決める力』を描いたあとに、まさしく名無しさんから「興味深い」とコメントを頂きました(笑)

で、僕自身もわからなかったので、特に続きは描いてませんでしたが、この本を読んだので描いてみることにしました。

無認可の保育園で働く方をインタビューしたものを本にしたものですが、この本の紹介文でこんなことが書いてあります。

この園には「危ないから、だめ」という大人の言葉はありません。

『いなほ保育園の十二ヶ月』

マンガ内ではちょっと不正確ですね。「危ない」というけど、「ダメ」とはいわないという感じでしょうか。そのかわりすごく神経を使って見ている、でも、危険を取り除かない。そんな感じです。

自分のスタンスとしてそう思ったり、それが大事だろうということは非常にわかるんですが、それを保育園でやるというのは、想像できないぐらい大変なんだと思います。単に放置するとは全く違いますので。

聞き役の塩野米松さんが冒頭で、こう書いています。

正直言って驚いた。通常考える園庭も門も塀もそれらしき建物もないのである。子どもたちはたくさんいた。空き地で遊ぶ者、一人で木陰で土いじりをしている子、空き地に積まれた丸太をよじ登っている子どもたち。子どもはいるが先生らしき姿はなかった。

『いなほ保育園の十二ヶ月』

この本を読む人によっては、昔の子どもがそこにいるようだと感じるようです。

まだ読み途中ですが、こんなことも。遠足時のエピソードで、

「いなほ」の子たちは何もなくていいんですよ。行ったら自分たちが遊びを作って遊んじゃうから。自然があれば。雨だって平気だから。

『いなほ保育園の十二ヶ月』

これは、おもしろいですね。僕はスノーボードをやってることも関係あるかもしれませんが、ああいったものって結構贅沢だと思ったりします。テレビとかそういうのよりずっと楽しいと思います。

印象に残ったことはこれです。なんてことの無いことかもしれませんが、遠足時のエピソードでもうひとつ、

子どもたちは大人に媚びることもないし、なんかやってみせてやろうとかっていう気はまるでないです。帰りのバスなんかでもね、「おやつを食べたら寝ちゃうんだ」とか、いろいろ言いながら乗り込んできますでしょ。親は、そうか、ああやって寝ることも自分で決めてやっていくんだなとわかるわけね。

『いなほ保育園の十二ヶ月』

この、自分で考えて決めていくということ。僕はとてもひっかかります。「寝ることを自分で決める」って当たり前なんですけど。すごく、印象に残った一文ですね。

何から何まで承認をもとめるのではなく、総合的に判断して自分で決める。(そのあとに、怪我するとかそういった可能性もあるからそこをどう気を付けるかといった面、またケガはしなくても失敗から学ぶこともあるという測面も書かれています)

あたりまえなんですが、そういったことをする機会は減っているんだろうなと。誰かにいいよといってもらわないと全く動けなくなる人が増えるんだろうけど。

運動会もプログラムが無いとか話も出てきて結構、おもしろいです。

いなほ保育園の十二ヶ月
いなほ保育園の十二ヶ月

2010年06月02日 03:41Fujii

同じことを違う言葉で言うだけで何かやる気が出るという人間のおもしろさについて

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動きまで落としこむこと

例えば大抵の人は本などを読むときに、この用語はなんだろう?と思って読んでいくと思います。最終的にはこういうことをするということかな?と動きまで落としこむことをしていると思います。

自分もそうしていますが、海外の訳された本を読むと、苦労して読んだ後には、なんのことはない、当たり前のことが長々と書いてあるときがあります。

もちろん、書籍ではこういう言葉で言われているのだなとわかるのはいいことではありますが、それはある意味ではどうでもいいことでもあります。

端的にいってしまうと、当たり前のことを「その名前をあなたが今つけただけでしょ?」ということになりかねないからです。

そういった名前は、あってもいいんです。知っている人同士だと話が早いし便利。

だけれど、マンガの中に書いてあるように、相手が3点のシュートを入れたとき、もしくは入れようとしている、目指している、というときに、スリーポイントシュートっていうのがある、勉強しなさいって言ったりしてもしょうがない気がします。

スピード感

もう、目の前でやっているわけなので、うんちく程度に、「ちなみに海外では、それはスリーポイントシュートって言われてます、で、言い方はどっちでもいいんですが、さて、肝心のフォームやシュートのコツなど中身の話をしましょう。」くらいのスピード感があっていいんじゃないかと。

でも、眼に見えないものなので、もうちょっとホントは複雑ですね。

スリーポイントシュートっていう言葉が何を指しているのかわからなくて使ってしまっているからこそ、目の前に3点のシュートを決めた人がいても、スリーポイントシュートというすごいものがある、もっと勉強した方がいい、という風に言ってしまうのかもしれません。

逆に中身がはっきりわかってる場合は、相手がスリーポイントシュートという言葉を知らなくても、あなたがやったことですよと言ったり、3点のシュートのことですよとすぐに置き換えられるんじゃないかと思います。

動きまで落とし込めないのならば、やっぱりどこかまだ自分はわかってない状態

気を付けていることは、なるべく動きまで落としこむことです。

とはいっても、何から何まで動きに落とし込めるかというとそうではありません。むしろ落とし込めないことの方が多いです。特に本だけとかだと。

動きまで落とし込めないのならば、やっぱりどこかまだ自分はわかってない状態なのかなと思いますので、相手を選ばずに用語を振りかざさないようにしたいところです。

わかってないことだけわかったという程度にしておく。

用語を定義しようとする過程は脳みその体操として嫌いじゃないですけど、目の前のコートで起きていることを用語化していることを忘れると本末転倒かと。

「わかりにくい」っていうこと自体が魅力のひとつ?

さて、「わかりやすさ」も扱う業界でこれだけ用語が氾濫するのは、皮肉にも「わかりにくい」っていうこと自体が魅力のひとつなんじゃないかと思います。

わからない言葉に振り回されて、解明しようと踊り、時には元きた場所に戻ってくるというのは人間の営みとして楽しいことだと思います。同じことを違う言葉で言うだけで何かやる気が出たりしますし。

でも、そのときの滑稽さというか「よく考えると自分のやっていることは笑える」ということを感じて、つっこみをいれるユーモアは持っていたいです。