2010年05月30日 16:19Fujii

「世界を変えるデザイン展」 問題不在の時代

20100514.jpg前に『今日は何を作ったか? 』というエントリーで、Q-Drumという道具を紹介しました。

で、『Design for the Other 90%』というのを『世界を変えるデザイン展』という名前にして似たようなことを今東京でやってるので見てこようかと。

結論から言うと、哲学の問題です。

哲学というか考え方の問題です。デザインの問題ではありません。なので、デザイナーとして見に行っっても対して得るものはないんじゃないかと思います。

極限状態のデザイン

次に、社会的な活動とかそういった方向に流れがちですが、軍事的な面とも似ています。

なぜかというと、これは「極限状態」のデザインともいえるからです。

つまり、極限状態で水を飲めるものをデザインして良かったね、ということもあるかもしれませんが、それが軍事的に転用されることもあるでしょう。

もしくは、軍事的な目的で作られたものが転用されるという逆のこともある。

そういう意味で、似た部分を持ちます。

問題不在の時代

難しいことは書きません。

「これこそ価値のあるデザインだ、深刻な問題を解決している。」そう思うデザイナーが増えているのかもしれません。

「問題を解決するのがデザイン」だと。

「いつも、自分たちがやっていることは、問題ではないことを問題かのようにして解決してるだけなんではないのか?」

そういうことが裏にあります。

じゃあ、ほんとの問題ってなんだろう?日本において、水は確保されてるし、だから問題なんてないんじゃないのか?と。

そこに迷いが生まれ足を運ぶ人もいるかも知れません。

もし、問題が無いならそれはそれでいいんじゃないかと。デザイナーをやめればいいだけです。

ある意味、ポジティブです。問題ない。ということですので。

で、デザインではなく哲学の話だというのは、そういった「何が問題か?」という話は、「何を問題とするか?」に関係してきます。

でも、デザイナーであるとか以前にそれは人間として考えていることなので、今更言う事でもありません。

そして、それは、デザインをする時だけでなくありとあらゆることについてまわります。

以前に取り上げたときにドラマチックな例であるといった

今回もそうですが、世界を変えるデザインといったときに、のんきに外からみている感じがします。なせかというと、自分たちがいるところは世界に入っているようで入っていない。

男性が出産の大変さを真剣に語るのにも似ています。

そのへん、ほんとのところどうなのってことは常に頭に入れておかないといけないのかなと。

どこか遠くの劇的な問題解決を夢見ている。

そういったことって、例がドラマチックだからこそというのはあると思いました。

なんとなくそんな感じします。

では行ってきます。

行く前に思い出したことは以下のエピソード。

ネットで見つけただけなので、本当に発言したのかわかりませんが、ダウンタウンの松本人志さんがこういったそうです。

浜田「残さず食べ!アフリカの子供等は食べたくても食べられへんねんで!」
松本「アホ!その子らも腹いっぱいになったら残すわ!」

生きのびるためのデザイン
生きのびるためのデザイン

Design for the Other 90%
Design for the Other 90%

2010年05月26日 03:15Fujii

イノベーションと文化の壁、文化が伝播する時間

今回はマンガなしです。

「スキーにとってスノーボードは全く新しい価値を生み出す破壊的イノベーションであった」なんて大風呂敷広げてみました(『(長文)拝啓スノーボードさん、核は遊び心ですか?』)が、文化と密接に関わっていると描きながら思いました。

例えば今のようにイノベーションという言葉が出回っていて、それを聞いたスキーの業界の人が、スキーでイノベーション!とか考えていても、いざイノベーションが目の前に頭が悪そうな感じで、ダボダボの格好で、ヒップホップな音楽をドンドコかけてくると受け入れがたく、ふざけてんのか?って反応になっただろうと思われます。

そんなことは、前に描きました。技術革新ではないので意味が違うのかもしれませんが。

で、そのスノーボードから影響を受けたであろうスキーヤーが、取り入れるとどうなったかというのをわかりやすい映像があったので載せておきます。前は大会の映像だった気がするので。

B&E Episode 2 - Railpark Europe from Blackout Project on Vimeo.

スノーボードとのタイムラグがほとんどなくなっているなーとしみじみ思いましたが、文化の伝播というのはやはり、革新だ!と叫んだところですぐに起きるものでもないのかななんて思いました。

文化はよほど柔軟に受け入れていかないと時間がやはりかかるのかなーと。あと、スノーボードのはじまりのころも革新だ!と思いながらというより、おもしろそうって感じだったんではないかと。違うのかな?

snowboarding_80s_oldschool.jpg

Transworld Snowboarding Covers

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)
イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)

描いたものが生き生きしているか?

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簡単に言うと、生き生きしているか?ということです。

うまくてもこれが無ければ魅力が落ちる。

僕はそう思います。

下手でもなぜ見てしまうのか?なぜいいと思うのかは、写真のようだからではない。それはいい絵とはなんぞ?ということを考えたときにすぐに出てきたことでした。

これは、絵ではなく小説の中の人物でもそうかもしれないです。だから純粋に絵の話ではないです。しかし、いい絵とは何かを考えたときにそれが出てくると考えました。

なので、物語のフレームが出来ていたとしても、その中の展開や登場人物が生き生きしていなければよくない。

では、描き方なんてあるのか?それは、「ポニョはこうして生まれた。」の中で監督も悩んでいます。こういう登場人物なんだとしっくりくるまで描き続けているようでした。

こういう人物ならこういいうときにこうしてこうなんだ。という一種の統一した何かが自分の中にしっくりくるというのはすべて考えてやることではありません。

例えば「元気な男の子」と言っただけではしっくりきません。言語よりももっと違う部分の大量な情報を扱っている何かが関わっている気がします。

自分でも気付いていない情報をどう言語以外でデザインすればでてくるのか?まだ謎です。

ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ [DVD]
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2010年05月25日 08:31Fujii

「動詞」の意味を改めて考えてみませんか?

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動詞の意味を改めて考えてみるってのは普段やります。「旅」と「旅をする」ってのは、イメージできることが変わってきます。

そんな今日は僕の朝ブログ記念日です。

『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』を読んで それは内省型?体験型?

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『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』を読んでいます。

ついったーでこんなことつぶやきながら読んでましたが、ちょっと面白くなってきました。
「誰のためのデザイン?」という最高のパンチラインを持つノーマンさんですが、眠くなることが多いです。

題名から何のことについての本なのかピンときませんでしたが、今のところエデュテイメントの本なんじゃないかと思っています。娯楽の人をのめり込ませる要素に注目し、それだけではなく教育で教えるようなことをいれられないか?ということからはじまっているからです。

人を夢中にさせるだけで、何も教えていないという博物館の展示に疑問を感じています。

なるほど、だからこの題名なのかと思いました。

体験型と内省型の両方が必要

というわけで、体験型と内省型の両方が必要だと。

卵が先か鶏が先かみたいな話ですが、体験が基本的には先にくると思います。じっくり考えて体験するよりも、体験したことを考える方がどう考えても自然だと思います。

それは、ひとつには、スピードが違うからです。

体験型の方が整理はされていないし、本人にも情報として意味のある形になっていないような、いわば信号のようなものを受け取ることになります。でも、やはり大量に受け取っているからです。

その、大量に受け取っている信号以上、情報未満みたいなことを処理するのには、内省型では時間がかかりすぎると思います。

って、わけわからないことを言ってしまいました。

スポーツを思い浮かべています。

シュートを一回でも打つ、リムにあたって、ゴイーンっと弾かれる。その一回だけでも得ているものはあります。得ていることは大量で、ものすごいスピードで処理されています。それをやらずにいきなり内省というのはちょっと厳しい。

単純にそう思いました。

脳みそを動かそう

教育の素人ですので体験ベースになってしまいますが、熱中するだけで終わってしまうということもわかります。ノーマンさんも本の中で書いていますが、演劇や映画は受身です。なので、脳みそが自分で働いているかというと微妙なところがあります。

インフォグラフィックなんていうのも、しっかりきれいに説明すればするほど脳みそが動かないかもしれません。なんとなくわかった気になって考えないことも多いのではないかなと思っていました。するっと鵜呑みにしてしまいやすくなるということです。

だから、鵜飼いの役割を自分でして、飲み込んだものがなんだったのか?吐き出して考えないと、もしかしたら爆弾を飲み込んでいるかもしれません。

さて、結果的に、脳みそを動かそうとしたら、謎かけをすることがひとつの方法です。その謎を考えるという体験を見ている人に与えます。もちろんそこまでにはのめり込んでいる状態でなければいけませんが、謎かけをすることでのめり込むということもあるので、どっちが先ということでもないと思います。

謎かけ以外には、ひとつ思い出したのは、シミュレーションです。見ている人が、別の人生を体験するということは、受身の体験型ではあるんですが、それは考えさせられる部分はあるのではないかと思いました。

体験型というのは、本来受身とは限らないと思います。スポーツを体験するということは受身ではないです。やっている映像をみようというのは受身です。など考えつつ読んでいます。

インストラクションというのか教育関係の人にとってはもう当たり前の話なのかもしれないので、あまり面白くないかもしれません。

僕は結構面白くなってきました。

ただ、本の題名の「賢い」というゴールが、「誰のためのデザイン?」じゃないですが、「なんのための賢さ?」ってところはでてくるのかなーと思いつつ。

人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学 (新曜社認知科学選書)
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関連記事:

2010年05月24日 00:49Fujii

「いい」ってなんだろう?

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「いい」ってなんだろう?

「いい」のひとつに「あじ」があります。

「なんかあじがあるね」っていうときのあれです。具体的には絵でもあります。こっちの絵はあじがある、こっちはあんまりないとか。

だから、いい絵ってなんだろう?と考えるときにあじがあるのかは大事なところ。

じゃあ、あじってなんだろう?って考えました。

その前に、あじではなくて、「うまい」ってのは写真的であるってのがひとつのゴールですよね。だったら、写真でいいんじゃないかってことになります。

写真で撮れないものを写真のように描くってことも目指すゴールになるのかもしれませんが、逆に言うと、現実にあるものは描けないことになります。

ゴールが写真のような絵を描くのであれば、写真をとれば良い。

つまり、大友克洋さんの描いたAKIRAのような世界、あれが「うまい」のひとつのゴールの形。僕もあのバイクに乗って「てつおおおお!」って叫びたいくらい大好きです。

話がそれました。では「あじ」って方に戻しましょう。

「あじ」ってなんだろう?

以前に、僕はマンガは描いているうちに絵が変わってくる方が好きだと描きました。漫画に限った話じゃないですが、同じ人でも描けば描くほど変わっていきます。

ただ、マンガは続いていくので、一応同じ対象を描くことが多いです。なので、同じキャラクターでも昔に描いたものを見ると全く違うということがわかりやすいです。

で、単純にこれが大好きなんです。

絵を見ながら作者の変化を感じ取れるからです。これがとても面白いです。

なぜ「あじ」の話と関係なさそうな絵の変化の話をするのかというと、ちょっと関係あるんじゃないのかな?と思うからです。

「あじ」があると感じるときはいつなんだろう?

同じ人の絵でも、「あじ」がなくなってしまったと思うことがあります。絵が安定した時です。これは、洗練されていったとしてもそうです。

単に、変化がなくなっただけではなく、洗練されてうまくなっていたとしても、「あじ」がなくなってしまうんだと思います。

「あじ」の源と変化し続けているということは何か関係がありそうです。

もう一度、どんな時期に「あじ」を感じるのか考えてみました。

まずひとつは、時期で言うと初期です。わからないものをなにか迷いながら、時には過剰に描いているときに感じます。

それが、迷いなく線を引けるようになってくると変化がなくなってきます。安定してくるんですが、「つまらない」。

これは、ものすごく大事なことです。

ある意味、未完成の方が「あじ」があって「いい」と感じるって事です。

「迷いの無い線」で失われるもの

僕は「未完成感がなにか大事なんだろう」と思って、これ以上考えていなかったのですが、先日『ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~ 』の中で宮崎駿監督がこんなことをいっていました。

「手に逆らって描く」

ということです。おや、これは自分が考えていたことと何かつながるんじゃないかと思って身を乗り出しました。

監督は、ぼこぼこしたものを描く時に、繰り返し書いてしまうと、線が省略されてしまう、そこで失われてしまうものがあると言っていました。

勝手に手が動いていくままに書いていくとどうしてもそういう記号のような絵になってくると。それは、自分が書いたことのあるものを繰り返し描くだけにもなってしまうと。完全には覚えていませんがそんな意味のことを言っていました。

なので、自分が普段慣れた線のひく方向に逆らうようにしなくてはいけないと、またそうして描いた方が良いといっていました。

これは、「なるほど!!」と思いました。

単に未完成だからだけではなくそういうことなのかと。

絵をくり返し描くと、洗練されてきます。

「洗練」と「あじ」

ボコボコのものをくり返し描くとどうしても丸みを帯びてきます。絵をあまり書かない人でも同じです。100回同じ円を描いたとしても、徐々にきれいな丸になると思います。もしくは漢字の「凸」という字を繰り返じ描くのであれば、徐々に丸みを帯びてきます。字であればいいのかもしれませんが、絵の場合影響が出てきます。

最初は偶然、迷いや不安定感、ヘタさから線にゆらぎがあります。もしくは、ぼこぼこしたものをちゃんとぼこぼこしたものとして描いています。それが、最短距離や最小限の線になるうちに、省略されてきてしまう。

それを見る人は感じとってしまうんだと思います。もちろんその安定感が、「うまい」と感じるひとつの要素にもなっています。しかし、「うまい」と「あじ」は別のことです。そして、「うまい」が「いい」と同じではないところが恐ろしいところです。

線にはそういった情報も含まれているんだと思いました。試してみたくなる言葉でした。

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AKIRA(1) (KCデラックス 11)
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2010年05月23日 00:46Fujii

『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』を見て 

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『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』 というDVDです。もともと、2時間番組のためにとった映像を12時間くらいの長さにしたものです。

ドキュメンタリーは結構好きなのですが、なぜ好きかと言うと、そこからどう読み取ろうと勝手なところですね。そういう現状があるということを知ることができるからです。

もちろん、そこに演出ははいってるんですが、そこを期待して見るわけではないので、あまり求めません。そういった前提で見ることができるから結構好きです。

監督の観察記録として

ユーザー調査とか観察とか好きな人で、ジブリの作品を見たことのある人は結構いいんじゃないかと思いました。

ユーザビリティテストでもそうですが、ああいったものの特徴は誰かが編集していないデータです。

ユーザーの使っている様子は、様子であって何が不満だとかこれが原因でできないとかを教えてもらうものではありません。

誰もわかりやすくまとめてくれていないし、説明もしてくれていない、そこから、こういうことなのではないかとか、興味をもって考える人でないと、立ち往生してしまうか、安易などっかで聞いたような解釈をぺたっと貼りつけて終わってしまいます。

そういった人にとってはあまりにも長いのでやめた方がいいと思います。

というわけで観察記録として見るというのがおもしろい点のひとつです。

ユーザーは本音を語らないことが多いのですが、宮崎駿監督は結構語るようにあえてしている部分も感じました。

ディレクターがある種、こういうことなのかなとフレームを持って話す、例えば、「〇〇ということを伝えたくてやるんですね?」とか「○○から発想するってことですね」とかいう質問に対して「わからない」と答えます。

そうすると聞いた側は困ります。予想していた展開と違うので。普通は、聞かれた側が、そういったことを避けるために話をあわせます。

なので、データとして、アンケートなどできいたり、たとえインタビューのように聞いたとしても、聞き方によっては誘導尋問になってしまうので意味ないなと改めて感じました。

つくるプロセスのヒントを探す視点で

つくる際のこだわり、問題に対処するときの様子など、絵や物語を作っている人には参考になると思います。

スタッフと監督のやりとりなんかはとても面白いですね。

監督の観察記録ではあるんですが、アニメーションをつくるすべての人がそうではないとは思うんですが、監督自身が描写するときに観察することを重視している感じがします。

なので、「観察する人」である宮崎駿監督の観察記録です。

目に見えない頭脳労働としての視点

設計図に基づいて建設するというものであれば、ビジュアルでわかりやすいです。ものが作られていきますので。

しかし、この映像はではそこまでの動きがありません。

なので地味です。

何かを描くとかいうことは、周りからみても、机に向かっているだけです。そして、なぜかその本人のペンがするすると動き何かを形作っていくわけです。

周りから見ると、特にそういったことをやっていない人から見ると、全くどう生み出すのかわかりません。出てきた時にはもう出来ています。出てきたもので試行錯誤している姿は絵になりますが、肝心のどこからそれが生まれてくるのかはわかりません。

これは、企画する人やプログラマー、デザイナーの方などにも通じるところがあるのではないでしょうか?

もっといってしまうと、何かを考える人すべてに通じるはずです。

そういった意味で目に見えないものを生む、頭脳労働というのかわかりませんがそういったもののプロセスとして見るとまたおもしろいです。

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2010年05月17日 03:02Fujii

ユーザーの行動観察に向いてる人

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ユーザーの行動の観察に向いている人

行動と言語とは別です。言語行動という言葉もあるので行動の一つともいえますがざっくりと捉えたうえでという意味です。

電車の中で席をゆずる時に、「座りますか?」とか「座ってください」とか言語によって伝える人と、自分が席を立って離れる人がいます。

本気で席をゆずることが目的であるならば、目の前にきた人が座りたければ、あいた席にすわるという行動は予測できます。

なので、自分が席をあけるという行動が、相手の行動にどう影響を与えるのかを考えているということになります。

声をかけるという行為自体の影響

逆に、声をかけて席を立つ人は、そのこと自体で相手が気を使うということを考えていません。そういう意味では、席をスムーズにゆずるということを本気で考えていないといえます。

というのは言い過ぎですが、行動に着目した方法ではないということです。本気で思ってたとしても、気を使わせているという問題を新たに引き起こし、それを解決できない方法になってしまいます。

ということで、ユーザの行動を観察する場合でいうと、後者の「席を立って離れる人」のほうが言語以外の点にも着目しているという意味で向いてるんじゃないかと思います。

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パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学
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人は観察されると行動を変える

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『実験心理学が教える人を動かすテクノロジ』という本から。

「監視の原理」ということが書かれています。

しかしながら、説得の原理としては最低限ひとの目につくところにカメラなどを置かないと監視が目的となってしまうとも書いてあります。

また、同意されていないことに対して監視したとしても結局監視がないところでは意味がなくなってしまうということも書いてあります。

しょうもない原理なのでそれほど詳しくは書きません。

ただユーザビリティテストでは、これと同じ状況になってしまいます。ユーザビリティテストの目的は、「監視」でも、「説得」でもありません。

しかし、「他人から観察されていると人は行動を変える」ということなので、まさに当てはまります。

なので、対処が必要となります。

それはこちら『ラポールの形成(かるたでわかる用語集)

このことから、ユーザビリティテストに限らず、たとえ意図していなくても「監視」に似た状態が生まれてしまう時には、意図に関係なく対処しなくてはいけないということだと思います。

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実験心理学が教える人を動かすテクノロジ
実験心理学が教える人を動かすテクノロジ

2010年05月13日 00:31Fujii

『実験心理学が教える人を動かすテクノロジ』を読んで〜やろうとしていることはマシなことなのかそうでないのか〜

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人をどう自分の望むように動かすのか?

この書籍はコンピュータが人を説得するという現象に着目して書かれています。

人を説得するということは、簡単にいうと「どう自分が望むように動かすのか?」ということになります。

最初に、結論から言いますと、説得するのはいいけれど、肝心なのは説得して「どうしようとしているか?」ということです。

本来、「説得」ということだけに限ったことではありませんが、ある力を使って、やろうとしていることはマシなことなのかそうでないのかを考えることが必要だと思います。

内容的には、『影響力の武器』という本や、『人を動かす』というような本と似ているといえば似ています。前者はどちらかと言うと否定的、後者は古くからある自己啓発の本ですので、肯定的な書き方がされています。

近いことは『「人を動かす」ための「ユーザビリティ」』でメモってました。

こういった本を読んで思うのは、人をコントロールするということ自体が持つ、何か怪しさについて改めて考えることになるんだなということです。

その「説得」が問題あるのか?を確かめる考察がおもしろかった

ということで、大抵の人が興味あるであろう説得の方法よりも、その「説得」自体が正しいことなのかを見分けるための考察が最後の方についているのが意外で、おもしろかったです。

簡単に言うと、説得自体に問題があるわけではなく、説得の目的、方法、結果、この3つの視点から問題がないのか?を考えるということです。

明らかにダメなもの、文化に依存するもの、許容されるものなど、そこに正解はないんですが、おもしろいです。

あんまり、コンピュータと関係ないといえばないですが、この本ではコンピュータであるからこその特徴も書かれていました。

「説得」という手法に関する無知

この手の本を紹介するかどうか微妙に迷うんですが、その理由は、こういうのがマシなことに使われなかったらイマイチだよなーと思うからです。ですが、「説得される側」の人が、「説得」の手法は把握しとくのはそんなに悪くはないだろうと思います。自分も、にゃるほどーと思ったからです。これもまた、本を読んで説得されちゃってますけど(笑)

実験心理学が教える人を動かすテクノロジ
実験心理学が教える人を動かすテクノロジ

亜玖夢博士の経済入門
亜玖夢博士の経済入門

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)

2010年05月09日 17:27Fujii

短い時間の映像なのに、長い時間を体験したような感覚

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今回の題材の映像はこれです。

一人の人間の成長を表現したCMだそうです。

長い時間をつなげたようにみえるのなんでだろう?

言わなくても見た人が、ひとりの人物の成長だということはわかるようになっています。

まずは、カメラの中心に置かれている人物が変わっていくことで、同じ人物であることを表現しています。
なので、ちょっとずれる場面では少しわかりにくくなるかもしれません。

もともと、わかりにくくなる理由はなんでなんだろうと考えました。

それは、ピックアップするとつながりがわからなくなってしまうからです。前の場面と次の場面が同じにみえるのは、何かつながっていないとダメです。

簡単な例では、同じ姿形をしているということです。

異なる場面でも、同じ人が出てくれば、同じ人物だと表現できます。それは、俳優ではなくてアニメやマンガでも同じです。同じ姿形であれば同じ人物に見えます。

ただ、ピックアップするということは、逆に言うと何かが変わっていないと意味がありません。共通点はあるけれど、同じではピックアップする意味がありません。

長い時間内でピックアップすると、姿形が変化することが前提になります。なのでピックアップすると、「どの人とどの人が同じなんだっけ?」となります。

今回の映像では、顔が似ている人物を揃える以外に、赤い服を着せることで解決しているのだと思います。記号として、この人は、前の場面のこの人と同じですよと示すために使われています。

短い時間の映像なのに、長い時間を体験したような感覚

一生という長い時間をカット割りでつなげていくこの映像をみると、不思議なことに短い時間の映像なのに、長い時間を体験したような感覚が生まれます。これがカット割りのすごいところだと思います。

もしも、場面をつなげずに最後の場面だけ見ても、なんかおばあちゃんが歩いているようにしか感じません。

ところが、映像を最初からみて、いくつかの場面を知っている人だと最後のおばあちゃんを見ても、そのおばあちゃんの幼い頃からのそれまでの成長まで頭に入れながら見ることができます。そのおばあちゃんが記号のようになっていて、その記号は、過去の誕生日会や結婚式や仕事、こどもの成長などの場面をあらわすようになるのだと思います。

思い出がぱぱぱっとよみがえる感じですね。

これは、自分が過ごした街は、人にとってはただの街でも、自分にとっては思い出の場所であることと同じです。

逆に、短い時間の映像で、ほぼ場面がかわらない場合だとこんな感じの映像になります。短い時間でもちょっと印象が変わります。

人の一生はおもしろい

今回の映像は、親と子供が言い争っているようなシーンも一部ありますが、紆余曲折という感じでもありません。ある意味平凡です。それでも好きです。

ひさしぶりに『フォレストガンプ』という映画が見たくなりました!

フォレスト・ガンプ [DVD]
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2010年05月08日 00:22Fujii

「仲良くなる」ためには、目標を「仲良くなる」にしてはいけない

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「仲良くなる」の仕組み』の続きです。

ポイントは目標は「仲良くなる」ではないということ

これはどういうことかというと、なにか別の共通の目標を持つことで、共通の話題ができて、その結果「仲良くなる」ということで、「さあ、仲良くなりましょう」という目標を目指すわけではないということです。

無理に「さあ、仲良くなりましょう」といったところで、ちょっと話すだけだったり、形だけ「仲良くなる」だけで、あまり意味がありません。

「仲良くなるごっこ」です。

「仲良くなる」ためには、目標を「仲良くなる」にしてはいけない

「A地点まで行く」とかそういった何か共通の目標を持つことのほうがうまくいきます。

アプローチの仕方や、実際の動きなどからお互いのキャラクターへの理解が深まり、なおかつ共通の話題ができてくるからだと思います。

マネジメントも一緒

実は、ほかに似ていることがあるなと思ったのはマネジメントです。「マネジメントしよう」ということだけを目標にしても、形だけ「マネジメントしてる風」になってしまいます。

自分が相手と共有すべき状況のことを把握していない状態で、これはよくないとか、こうしたほうがいいと言ったところで形だけのマネジメントになる危険性があります。

「マネジメントごっこ」になってしまいます。

なので、常に自分が気をつけておかなければいけないのは、共通の話題ができるような、共通の目標などをつくることなのかもしれません。

2010年05月07日 01:34Fujii

「仲良くなる」の仕組み

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仲良くなる仕組み

ということで、友人と考えたことを描いてみたいと思います。コミュニケーションというと大げさですが、コミュニケーションのきっかけのデザインです。

まず、昔から人数が集まれば何か起きるかというと、意外とそうではないかもしれないと思っていました。

では、どういうときに「仲良く」なるのかな?と人生を振り返ると、思いあたる要素はいくつかあります。

その中のひとつに「共通の話題がある」という要素があるかなと思いました。

共通の話題がある場合

趣味が似ているとか、同じことに興味があるなどです。こういったときには、普段それなりに考えていることがあるので、そのことを話すだけできっかけが生まれる気がします。

共通の話題がない場合

逆に共通の話題がないときっかけが生まれないかもしれません。その場の人数が多いと逆にきっかけがつかめないと思います。

さて、そんなときでも、チームをつくると仲良くなるきっかけができた気がします。なぜでしょうか?

2つの理由が考えられます。

まず1つ目は、チームで何かをするということで、同じ目標ができて、共通の話題が生まれます。そのことで、仲良くなるきっかけが生まれるのではないか?と思いました。

2つ目は、ある程度の人数に減ることで、話したりコミュニケーションをとる相手が絞られるからだと思いました。

どちらかというと、大人数のチームよりも、少ない人数のチームの方が仲良くなるきっかけはつかみやすいのかもしれないと思いました。

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2010年05月05日 00:40Fujii

「である」と「かもしれない」が替わるだけで印象が変わる

20100418.jpg

なんだかんだ言って人は「同じ」タイプを評価するというのは事実かと。こればっかりはしょうがないといいつつも、もうちょっとそういった傾向があることを忘れないようにしないとつまらないことになるのかなーなんて思いました。

さて、紹介した本では、支配的なコンピューターを支配的なタイプの人が使うとそのコンピューターを高く評価したというようなことが書いてありました。

実験の前提を見ると、そういった性格の人を集めたようなので、現実的にはそこまではっきり支配的であったりするわけではない人が多いのかなと思いました。

なんとなく、支配的な人は支配的なタイプとうまくいかなそうですがそうではないということなんでしょうか?

ちょっと謎です。

そんなことを考えつつも、文章の書き方で支配的であるかどうかを表現する部分は面白いと思いました。書き方ひとつで印象がかわります。

例えば、

「支配的なコンピュータを高く評価するのは、支配的な性格の人である」

というのと、

「支配的なコンピュータを高く評価するのは、支配的な性格の人なのかもしれない」

というのではちょっと印象が変わってきます。言葉の情報デザインです。

みなさんは普段どちらの表現を使ってるんでしょうか?

関連書籍:

人はなぜコンピューターを人間として扱うか―「メディアの等式」の心理学

関連記事:

2010年05月04日 14:33Fujii

「人それぞれ」という言葉で、言葉遊び

20100417.jpg「人それぞれ」という言葉を言われる時に感じること

「人ぞれぞれ」という言葉に何かパワーを感じます。

自分が話していて相手に言われたときに、「それは前提として話しているんだけど」と思います。

よく考えると、ちょっと困るのは、そのときに相手の頭が「人それぞれ」で止まってしまう時ですね。

なので、問題なのは、「人それぞれ」という言葉ではなく、そこで話が終わってしまうことなのだと思います。それぞれというのはどういうことなのか?をまた考えれば良さそうです。

「人それぞれ」という言葉をいうときに感じること

今度は逆に、自分で「人それぞれ」という言葉を使うときを考えてみました。

改めて考えてみると、話している内容に偏りがある時に口から出てきている気がします。

ある数値データを元にしていたとしても、その解釈が変だなと思ったとき。もうちょっと考えないと話が変な方向にいきそうだなと思うときです。

「こういう人が多い」というときに、単に自分の考えを話していることがあります。

この2つを合わせると

自分が話していることに対して、前提が変だなとおもったので「人それぞれ」と言われた可能性があるということ。

このあたりはある程度、言う立場と言われる立場を置き換えると考えることができます。

で、「人それぞれ」と言われて、前提がガラガラと崩れてしまうときに感じることをもうちょっと考えてみます。

「人それぞれ」ということ

「人それぞれ」というのは、言葉ではわかっていますが、実はどうそれぞれなのかはあまりわかっていないのではないかと思います。

「人それぞれ」という言葉は、ある意味「人は、ひとりひとり違うのである」ということを含んでいます。

自分が、「人それぞれ」と言われて、ガラガラと崩れると感じるのは、このことを改めて認識し、よく考えなくてはいけなくなるからなのかもしれません。

もうちょっと言うと、根本的な部分に関わってきます。

「人それぞれ」というのは「自分と誰かは違う」のであるということを認めることです。

「そこのあなたと隣のあなたも違う」、「AさんとBさんは違う」、「CさんもDさんも違う」、「EさんとAさんも違う」、「ありとあらゆる人が違う」ということを認める、もしくはそうなんではないかと考えることで、とてもめんどくさいのでひとまとめにしたくなるようなテーマなのです。

もちろん、そういった前提でこの人はグループAっぽいなとか話をすることが多いですが、その大前提を忘れてしまいがちなんだと思います。

自分に置き換えることで考えることが多い

もともと人は、自分を相手に置き換えて考えることが多いと思います。このエントリーでもそうしていますし、オーソドックスな方法だと思います。

さて、このことがどう関係するかと言うと、「人それぞれ」という言葉で「自分と誰かは違う」のだと改めて考えるときに、理解できないという不安がうまれるのではないでしょうか?

これが、「人それぞれ」という言葉が生む、ガラガラと崩れる感覚の正体な気がします。

とはいえ、このことで不安に思うかは別として、すべての人が「人それぞれ」であるということにあてはまるという意味では皆同じです。

「同じであってほしい」 「同じ」だと安心するというのは、いい面もありますが、全部同じというのは、もともとは無理がでるものです。
だから笑いを含まずに真剣になりすぎると、無理があるのに同じであろうとしてガタガタしてきます。

もしくは、大前提は見ないようにして、必死で「全部同じ」であると思い込むしかありません。そういった結果「人それぞれ」というあたりまえのことを避けてしまうのかなと思います。

でも、ひとつの疑問が残ります。

「人それぞれ」であるということは、すべての人に当てはまるという意味では皆同じです。
そういったことで「同じ」では安心できないのかな?ということです。

と、まあ「人それぞれ」というよく使われる言葉ですが、こう色々な発想をするには面白い言葉だなーなんて感じで考えてみました。人によってはペルソナに結びつく人もいるかも知れませんし、コミュニケーションの話に結びつくかもしれませんし、はたまたチームとか個性とかグループ社会に結びついたりする面白い言葉かなと。