2010年02月26日 00:17Fujii

そのUIにモードがあるのか?ないのか?

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先に何をするか決めなくてはいけないUIなのか、それとも、あとで決められるUIなのか?

何よりも先に「買う」モードにはいらないと買えないのか、それとも、「買う」か「見る」かは自由にできてあとで気に入ったものを「買う」ことができるのか?似て非なる2つUIの話。

見た目ではそれほどわかりません。画面の一連のつながりを考えてはじめてわかってきます。

ある意味透明な問題です。

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2010年02月25日 23:47Fujii

UIってなんで大事なの?を擬人化で考える

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人間はもともと何かに人を感じることはできるはずです。擬人化というのがそれです。擬人化される対象は、何も人間に似ている哺乳類、動物だけではありません。

おそらく石でさえ擬人化されるでしょう。

例えば、砂漠の中にぽつんとひとつだけある石、一方ではカラフルな色とりどりの石に囲まれている石があるとすれば、そのシーンを今言葉青通じてイメージしただけで、なにか人のキャラクターをその石にかさねあわせることができたのではないでしょうか?

ということで、UIも人に例えてみるとわかりやすいのではないでしょうか?

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感覚貯金

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感覚貯金

感覚ってそもそもどうやって伝えればいいか考えたことありますか?うれしいとか楽しいとかそういう言葉はあるんですけれどなかなか伝わらないですよね。

そういった気持ちを表現した言葉ではなく、そういった気持ちになったシチュエーションを伝えたほうが、そのときの気持ちを伝えることができるのではないでしょうか?

まるで逆のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、気持ちを伝えるために、シチュエーションのみに目を向けるということです。

シチュエーションから気持ちを再現するのは相手におまかせです。

出来事を組み合わせていくと感覚がこうなるという法則がある?

さて、では、一体どういうシチュエーションであれば、伝えたい気持ちをうまく相手に再現することができるのでしょうか?出来事を組み合わせていくとこうなるというのがあるのではないか?

僕は考えました。そして答えが出ました。

「わからん」

例えばカメラがあり紙があり鉛筆がある。そういったものと何かの出来事を組み合わせればどういう感覚になるのかなんてのは全くわかりません。

感覚はどこから?

では、どうしたらシチュエーションが自分の中から引き出せるようになるのでしょうか?

それは、シチュエーションを体験するしかありません。その感覚を自分で感じて、そのあとに、今こういうシチュエーションになってると整理して自分の中に感覚と一緒に貯金します。

これが感覚貯金です。

繰り返しになりますが、シチュエーションを何かの法則で、組み合わせによって作り出すと言うのはあまりにも関係する要素が多すぎて不可能です。

毎日の生活の中から、こういうときにこういう気持ちになる、それは今こういう状態でこうしたときにこうだったからだということをセットで考えるしかありません。

人間の不思議なところは、そういった気持ちになった関連することを一瞬のうちにしまいこんでおけることだと思います。ビジュアルシンキングに似ていますが、もうちょっと動いている感じ覚えておけることです。

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最近自分が使ったUIを集めてみました(6パターン)

最近自分が使ったUIを集めてみました

ユーザーインターフェースといっても主にWebを閲覧しながら使ったものです。いわゆるインタラクティブなアートとかそういう方面の、なんかカッコいいけど使わないUI(偏見)ではなく、自分がWebサイト閲覧中に使ったUIだけ集めてみました。

その場クリックで連続閲覧

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写真を連続で見て行く時に使うUIです。クリックするためにマウスのポインターを毎回移動させないようになっていると楽ちんです。

利用頻度の高いページをスタートページに並べる

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これは最近使ったファイルならぬ、最近開いたページです。目的がはっきりしているアプリケーションの場合は最近使ったファイルは役に立ちます。それに対して、Webサイトを閲覧する場合はどうでしょうか?巡回するようなサイトはRSSにはいっていて実は毎回検索で新しいサイトを探すということも多そうですし、状況によって開くページが大きく異なってくるのではないでしょうか?どう使ってますか?

項目の値をキーワードにした検索結果の一覧を表示する

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タグやカテゴリと似ています。自分が閲覧中のデータを垂直とすると、そのデータのひとつの値を頼りに水平に探索するということになります。「垂直←→水平」というベーシックな人間の探索パターンにうまく対応しているのではないでしょうか?

地図から選ぶ

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一見便利そうですが、時間を知りたい場合はある程度一覧で見えている方が便利です。ただ国の名前がわからなくても大体ココだなというときには役に立ちます。僕が使ったシチュエーションではちょっとあっていませんでした。

データの表示方法を切り替える

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これは、データを複数の視点で捉えるというUIの最も基本的な部分に関わってきます。深いです。切り替えたいなーというような能動的にデータに向きあう時に必要になってきます。

フッターのボタンで素早く確認

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基本的には表示場所も表示サイズも決まっているUIです。単にウィンドウを重ねるのと近いですがどう重なるかが固定されているタイプです。

最近はパターンも大事なんですが、そもそものリテラシーだったりUIに対する解像度(小さい箇所だけど見たときにポイントがこのあたりと大体わかるというような)の平均的なレベルをあげるといったような、パターンを活かせる制作プロセスやチーム(組織)作りが結構結果に大きく影響を与える気がしてます。

UIに限ったことではないですが、ひとりが知識をつけるのと権限を持ってる人レベルからしっかり底上げしながらやるというのは隔たりがあると感じています。孤軍奮闘している方は多そうです。農業みたいですね。土壌づくりから。

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2010年02月23日 01:14Fujii

忘れ物を思い出すときに使う方法

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忘れ物を思い出そう

この方法は、忘れたことを思い出すときや、鍵や財布、コンタクトのケースをふとどこかに置いてきてしまったときにも使っています。

物よりも考えていたことの方が思い出しやすいですが、どちらも身体を動かすことによってその時の行為や思考を浮かび上がらせます。

身体が覚えていることを行為を再現することで引き出してみる

このように、普段考えたり覚えているわけではないこと、忘れてしまっていること、はっきり意識されないことなども、引き出してみようと思えば引き出すことが可能なんだと思います。

つまり、これは、行為から学ぶということとつながります。何かをやることで、それまで身体にはインプットされていたけれど特に意識されていないようなことを感じることができるからです。

ウォークスルーというのが何をしているかというと、自分自身もそれまではっきりと意識していないようなことを、行為によって浮かび上がらせることたと思います。

身体的なインプットとその身体的な行為に結びついているリアクションを自分自身で有効に使う

本来自分がそれまでに蓄えていた身体的なインプットとその身体的な行為に結びついているリアクションを自分自身で有効に使うということなのだと思います。

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ユーザーイリュージョン―意識という幻想
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2010年02月19日 02:36Fujii

(長文)拝啓スノーボードさん、核は遊び心ですか?

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基本的には前に描いたことの延長です。

テレビを見ていない方(自分を含めて)向けに整理すると、ハーフパイプの代表が「服装が乱れている」とかで開会式自粛とかしたりしたわけです。そのへんはテキトウに調べてみてください。

で、マイナーなスノーボードというものがオリンピックという場で、いままでスノーボードって何?と思ってた人とまじわったんですが、知らなかった人にとっては意味不明で不可解なことの連続だったかもしれません。

僕が文化に注目するのは、この「スキーとスノーボードの違いは?」という自問自答からくるところが大きいです。正確には競技スキーとフリースタイル文化の違いです。

パッと見は同じようなものを捉えるときに、文化をセットでみないことには理解できないということは、ユーザ調査などにもつながるのではないでしょうか?

自分のついったーを掘り起こしながら長文(たぶん)を書いてみます。

國母さんの腰パン騒動とおじいさんとの会話からはじまりました。

騒動の方はまあちょこっと耳に入ってきて、文化の違いについて考えるきっかけになりました。

考え始めたときに現在とりまく状況はどうなっているのか整理してみようと思いました。ユーザ調査とかマーケティングってこういうことするのかな?

それはさておき、思い出したのが、あるときリフトの上で年配のスキーヤーの夫婦と話す機会に恵まれたときのことです。

文化の違いがひょっこり現れてきます

おじいさんはおっしゃいました。

「最近は若者はほとんどスノーボードをしていて、スキーはちいさいこどもが親に教えられてやるくらいになってる」と。

たしかにそんな感じもする。人口自体減っているのでマイナーなことにはかわりないですが、そのなかで見てもたしかにそんな気がします。違いのひとつにそういう流れがあると感じました。

つぎに、

「スキーより面白いんですか?」

と興味を持っている様子。

「練習するんですか?」

とも質問をして頂きました。それをきいて、ふと思い出したのが、以前に中高年のスキーヤーの方と宿の送迎ワゴンの中で話したときには、

「何級みたいのあるんですか?」

と言われたことでした。インタビュー調査している気はほとんどなかったのですが、こういった部分に文化の違いがひょっこり現れてきますので面白いです。

そこで感じたのは、競技であるという暗黙の前提がそこにあるので、そういう発想で捉えようとしているのかもしれない。ということです。また、本屋さんで目にはいったスキー雑誌の見出しに、「ターンをきれいに」ということが書いてあったのも何故か思い出しました。

なぜ印象に残っているかというと、そういう「ターンをきれいに」という価値観がスノーボードにはないんです。もちろん滑り方の解説では出てきますが、目指すところが異なります。もちろん、バッジテストなるものもあり、とっている人もいますがそれが前面に出ることはないのです。

「アメリカチームのチェックのウェアがかわいい」というつぶやき

おそらくスキーヤーの方もゲレンデ内でハーフパイプとかあるところにはあるので見ているはずですが、昔から続けている方は発想が競技よりなのかなと感じました。

そういった会話を重ねる中で、やっぱりどう考えてもスキーの中からスノーボードは生まれてこなかったんだろうなと確信しました。昔の記事にも描きましたが、スキーメーカーで、スノーボード的なウェアの企画をしても、ワイドショー的に言うと、「だらしがない」という扱いをされて企画が通らないだろうなと。これは小さいようでものすごく大きい。

なぜかというと、全員がオーバーサイズが好きなわけではないにしても、ウェアの柄、サイズ、シルエットなどへのこだわりと流行りなどがスノーボードをやる人の中で結構大きいからです。これはたぶん、はじめる人にとっても大きそうです。

今回のハーフパイプ関連のTwitterを見てみると、「アメリカチームのチェックのウェアがかわいい」というつぶやきもちらほらありました。

たとえオリンピックという最高峰ではないですが上級の競技中の競技でもそういうところを見ているということです。

スノーボードは歴史は浅く、スキー場がなければできない

さて、スノーボードはスキーと対立していそうですが、歴史は浅く、スキー場がなければできませんし、スノーボードの板もスキーで培われた技術が使われ、ブーツにしてもそうだと思います。スキー場を支えてきたスキーヤーとつながるし、技術もつながります。そういう視点ではかなり「同じ」ものといえそうなのが面白い。

ものは揃っていたけれど、やはりそこからスノーボードを生み出すことができなかった理由

どこかで聞いたことのある話です。「技術はあったけどどう製品化すれば・・・」という話にも重なりますし、新しい技術がなくても変わることもあるということです。

ある意味スキー産業の中には、ものは揃っていたけれど、やはりそこからスノーボードを生み出すことができなかった理由がありそうだなーなんて感じます。

再びおじいさんの話

おじいさんの話を再び思い出します。

おじいさんが言っていた、最近の若者はスキーをしないという話へ戻ると、スキーが競技性が強いものならリンクするかもしれないなと。

どこからか聞こえてきます。

「アメリカチームのチェックのウェアがかわいい」

こんな声。

腰履きをすること、かわいいウェア着たいということは、一見違います。がウェアへのこだわり方という部分では実は近いのです。こだわるひとにとっては、腰履きがかわいくないとかかわいいとか色々あるとはおもうんですが、機能ではなくスタイルを重視するという意味で近いです。

競技ではなく遊び

年に1回行く程度の人達にとってスキー場にくるということは、明らかに競技ではなく遊びだと思います。

ここに文化の溝があります。それは歪みを生みます。

そのあたりの歪みは、オリンピックの中でスノーボードが、スキーの中のひとつとみなされているところに出ています。

端的に言うと、スノーボードの話に、SAJ(全日本スキー連盟)というのが関わってきてしまうということ。今までの流れがなければ、うん、そんなものかなと思いますが、文化の違いを考えると別の方が良さそうですね。色々オリンピックの競技になるときにもめたのでそのあたりは興味があれば調べてみてください。

別のほうが良さそうだなと思う理由は、腰パンを理解できないであろう(決め付け?)SAJの文化の中からはそもそもオリンピック種目のハーフパイプという競技自体が生まれてこないだろうということ。ハーフパイプはたぶんスケート(ボードのほう)のボウルやランプといったものから発想されていると思いますので。

文化が無ければ競技としてのみで捉えて、形だけ残してまるでスキーのようにしてしまうしかないということです。

ある意味ハーフパイプと腰履きはセット

ある意味ハーフパイプと腰履きはセットなのです(笑)

もちろん動きにくいので勝負優先でやらなかったり、好みの問題でやらない人もいますが、そういう意味ではなく、こだわり方という文化という面ではセットなのです。腰履きがいいのかとか、アメリカのチェックのウェアがかわいいかどうかなんてよくわからんという人と比べれば同じです。

この文化という部分に改めて注目すると、もはやスノーボードという形とは関係ありません。

競技スキー文化対フリースタイル文化

テーマとして正確にはスキー対スノーボードではなく、競技スキー文化対フリースタイル文化なのです。

というのもスキーする人がスノーボードのウェアを買ってやるということも増えている。フリースタイル文化なんて大げさですが、キャッチコピー的に言うと「ヤダよ、カッコワリい(SLAMDUNKで赤木が青田?に言った言葉)、ヤダよ、かわいくない」ってことになりそうです。またどこからかきこえてきます。

「アメリカチームのチェックのウェアがかわいい」

フリースタイル文化に惹かれてはじめた人がプロになったときにはそれをどんな形であれ守ろうとするのは当たり前

スノーボードの独特のフリースタイル文化に惹かれてはじめた人がプロになったときにはそれをどんな形であれ守ろうとするのは当たり前です。ひとによってその文化の定義は違いますけれど、そういう意味ではなく根底にあるスタイル重視ということです。

大げさに言うとイノベーションのジレンマ

イノベーションのジレンマではないけれど、結局スキーにとってスノーボードは全く新しい価値を生み出す破壊的イノベーションに近いものがあったのだと思います。

で、商業的にはスキーメーカーもスノーボード用品を作り始め対応したのだろうけれど、文化面ではまだジレンマが生じているのだろうと思われます。

競合となるものがでてきて、次第にシェアを奪われていって、ようやく動き出さざるをえなくなるという構図だったのではないかと思います。

シェアを奪われてからでないと動けないのは、社内で現在のビジネスを脅かすような、ましてやときに、けしからん、だらしないと受け取られるような文化の違うものを立ち上げられそうもないなからです。

スタイルスタイルうるさいのはなんで?あとスタイルって言われてもわかんないんだけど・・・

ハーフパイプという競技化自体が、点数つけてどうする?というフェーズを通っています。

だから、たとえ競技の中でもスタイルを重視するという文化になるのだと思います。

むしろ、普段のスタイル重視の遊び、スタイルというと大げさかもしれませんが、反体制的というより、パイオニア的な遊び心、楽しいことが大事とかいうことを残そうとするのだと思います。

ちなみにスタイルって何?と言う定義はないです。それぞれが良いと思うことを勝手に言ってめざしてるだけです。

単純な原則みたいなもので、ユーザーイリュージョンという本の感じで言うと、「完全なランダムではないけれど、厳密なルールでもないその中間。単純な原則だけど、それが思いもよらぬものになり、それでいて美しいパターンをみせる複雑性が一番おもしろい」というようなことかもしれません。

原則から再現できるわけではないけれど、完全なランダムではない感じ。なんか腰履きの話から強引に知的なかほりが漂ってきた気もしないではないですがしてないですね、はい。

Eero Ettala Slopestyle Gold

結果的に何が起こっているかというと、ハーフパイプ以外にも、ストリートの要素を取り入れたスロープスタイルという形も生まれてきています。

競技というルールの中でどうのこうのというだけではなく、スノーボードというもののなかで、競技になりそうなのはざっくりと競技化するという感じが近いと感じています

新しい要素はスノーボーダーの遊び心から結局は生まれてきているので、ルールを生み出すことが核にあるのかななんて思いました。

もちろん、そんなに構えてというよりも、実際はそんなこと考えるひまはなく、楽しく滑るってことの延長。

色々考えた結果、フリースキーの方が理解されなさそうで大変そうですね。

Andreas Hatveit Qualifies First in Ski Slopestyle

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ユーザーイリュージョン―意識という幻想
ユーザーイリュージョン―意識という幻想

2010年02月17日 01:06Fujii

不規則正しい生活のススメ/博物館編

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いつもと違う道を通ったり、ちょっと寄り道したりそういう小さなことです。命を賭けるとか大金賭けるとかじゃなくてどちらかというとお金もかからないし危なくもないんだけど、普段やってないことをちょっとやってみるとかそういう感じのことです。これが、「不規則正しい生活」です。

ということで、当初復元建築物だけ見てこようと思ったので博物館行くつもりではなかったのですが寄り道してきました。

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原則撮影禁止だそうですが受付で手続きをして許可を頂いて撮影してきました。

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結構色々なものがあります。

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レトロな感じのものも見ていて面白いです。

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湯たんぽはこどもの頃使っていました。サンタにもらったのですが、「え?サンタが湯たんぽ?」と思った気がします。

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こういったものも見れます。iPodもPCも携帯電話もない生活です。そんな時代の延長の中で有形無形のものを作っていると思うと色々考えてしまいます。

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この形なんともいえないですが良いですね。

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扇風機もありました。

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炭火アイロンだそうです。

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はかりです。全体的に思ったことは鉄とか木がいい感じですね。個人的にはあとは革が好きな気もします。持ってはいないんですが。その3つが関わったものがなかなか良い気がします。てことは椅子?(笑)

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これは確か計算機だったと思います。

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梅まつりもやっていました。

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ひそかにおすすめなのがビール工場見学してビール飲んで、復元建築見て、競馬場でも行って少し買って遊んで見るなんてのも良いんじゃないでしょうか?大人の遠足です。

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2010年02月15日 23:55Fujii

自分の動ける環境をデザインする/旧府中町役場庁舎ほか編

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府中市郷土の森博物館の復元建築物を見てきました。小学校と茶室編』の続きです。

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こちらが今回のお気に入りです。

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入ったところは洋風。

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この奥の宿直室は和室

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こちらが境目です。

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和洋折衷ですがやはり靴は脱ぎます。

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気になって外から見てみるとはっきり。

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これは一体どう読み取るのでしょう?和洋折衷であることを覆い隠すわけでもなく、丸出しです。それもはっきりしすぎなくらいです。わざとやっているのかもしれません。この建物の周りに木があって裏は見えないからこうなっているのか、それともこの時代の価値観というものがイマイチわからないのですが逆に外にわかるようにしていたのかなとも感じました。真相はどっちなんでしょう?

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こちらは郵便局というか郵便取扱所に任命されていた家だそうです。

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この形のポスト好きです。これらの家のほかに茅葺きの民家もあります。

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お腹が減ってきたのでおやつタイム。

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寒かったのでとてもおいしいカスタード。

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こちらがまいまいず井戸です。ネーミングがきてますね。構造も怪しげで文句のつけようがありません。井戸はいいですね。実際は垂直に掘る技術が発達してなかったためにこういった形になっているとか。地質の関係で工夫した結果なんだそうです。

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ぱかっ。

と、予定はここまでだったんですが、資料館の方も時間があったので行ってみました。

小話ですが、エスノグラフィックな調査とかいいますが、もともと膨大なデータをどうしようかなーと考えるのが好きな人とそうでない人がいる気がします。

わからないにしても、自分なりに膨大なデータをどうやったら自分が興味をもてるのか色々試して得意なパターンを考えること自体をやろうとしないと立ちすくしてしまうかもしれないと思いました。

自分の動ける環境をデザインするという感覚。そのためには、自分が興味を持って動いてるときはいつなのかに敏感になることが必要です。いやでも個性がでてくるところです。

資料館編へ続く

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府中市郷土の森博物館の復元建築物を見てきました。小学校と茶室編

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府中市郷土の森博物館に復元建築物を見に行ってきました。

おもしろかったです。資料館で昔のものを単品で見るのは苦手なんですが、家を通して生活の一部としてだと環境がわかるのでとても好きです。

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江戸東京たてもの園日本民家園に続いて生活を体感するシリーズですが、ここの特徴はやはり小学校と庁舎、そして茶室です。そして資料館。

京王線の分倍河原駅からバスで行こうと思ったら行ってしまったばかりだったので、歩いて向かうことにしました。

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GPSと標識を頼りに、てくてく20分くらい歩きます。畑も残っていて結構のどかなところにあります。

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ひたすらてくてくすると到着します。博物館の入館料200円。

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これが学校です。1935年に建てられた旧府中尋常高等小学校校舎。なんかいい味出てますね。

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土足厳禁です。いわれなくても脱いじゃいます。土足厳禁万歳です。

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しゅたっ。

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僕は学校は好きではありませんでしたが、なかなかいい味出てますね。体感して自然に関連することを思い出させるのがこういった建造物の特徴。こどもの頃を思い出します。

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なにやら古い本もありました。復元されたのは校舎の一部らしいですが資料館のようになっています。

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楽器にミシン、跳び箱などが置いてありました。おばあちゃんが見ていたので話しかければなにか聞けたかも。

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座学の典型的な配置です。理解してもわからなくても一定のペースで進んで行くのでちょっと苦手。

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こういった建物も残ってます。旧甲州街道・府中新宿の商家。

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こちらが明治天皇の休憩所や宿所として利用されたこともある豪邸。茶室があります。

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中から声が聞こえますが何が行われていたのでしょうか?気になります。

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壁の特集をしていました。中身はこうなっているのですね。

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こちらが茶室です。

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ここが噂の入り口でしょうか?残念ながらはいれません。こちらでも中から声が聞こえてきました。気になります。

お茶や庭の世界というのは、何かを象徴するものを使う記号の世界だと思ってるんですがお茶はさすがに体験しないとちょっと分からない世界です。せめてこの小さい入口から入ってみたかった。ここでスリスリ器を回すのでしょうか?うーむ。

長くなったのでとりあえずここまで。

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2010年02月12日 21:57Fujii

「温故知新」を考える思考過程

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たまたまツイッターを見て思考スイッチがオンになっただけなんですが、温故知新については、以下の3つを感じて少し興味を持ちました。

  1. 自分が良いと思うものが忘れ去られていく
  2. 自分が良いと思うものが時代を超えて受け入れられている
  3. 「現代」を何らかの形で捉えていて比較できる

この3点です。

自分が良いと思うものが忘れ去られていく

これはわかりますよね。こういったことがあると、自分が知らない良いものが昔にあるかもしれないと思えてきます。

自分が良いと思うものが時代を超えて受け入れられている

これも、昔のものでもいいんだという単純な感覚ですね。まだ、超えるものがでてないといったことの確認です。だから、昔の中になにかあるかもと思えてきます。「昔」に対する幻想は差し引いたとしてもです。

「現代」を何らかの形で捉えていて比較できる

で、根本はこれかもしれないですね。現代を自分なりに何かしら捉えていないと、昔のものを捉えることもできないし、そこから何か考えたり、比較したりすることができないのではないでしょうか?

とそんな感じで考えています。

思考過程

置換えが頭の中で起こっているみたいですね。もともと時間というものは存在しないですよね。ただ、物が朽ちているだけです。流れといいますが、実際には単に太陽が昇り沈みが繰り返されていて、特にどちらに進んでいるわけでもありません。舞台があり、そこに人がいて、降りて、新しい人が挙がってということを繰り返している。だから寿命が1000年くらいある人がその舞台を眺めていたら、「あーあれ良かったのにわすれられてるなー」とか思うかもしれません。なんかそういう感覚がでてくるきっかけがつかめるかどうかも関係してきそうです。

2010年02月10日 22:31Fujii

人に影響を与える3種類の言葉のかたち

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ここだけの話ですが、小泉政権時代、「感動した!!」と言っているのをみて僕は、普通のことを勢い良くいってるだけじゃないかと思ったことを思い出しました。

「んー、難しいね!」と言っていたかは定かではありませんが、そういったような受け答えをみて、政治家的な話し方ではないけど、これはこれでたいしたこといってないじゃないかと思った記憶もあります。とはいえ、周りでは今までの政治家と違ってわかりやすいという声もありました。

そんなわけで、今回紹介した3種類の言葉も特にどれがいいというわけでもありません。ただそれぞれ影響の与え方が違うのではないかと考えました。

人が、説明する気もなくただ「チゲ鍋、ウマーイ!」と言うだけで影響を与えることもあるのではないかと。

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考えるときに言葉は消える

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なんか思考とか意識というと、オカルト的な感じがしますが、スポーツのような運動のはなしだと捉えると結構イメージしやすいかもしれません。

そういう意味では絵を描くということも運動のような要素を含んでいます。そして、絵を描くということと近いのが言葉にするということです。

言葉ではない部分があるということ、言葉では追いつかない部分というものが存在していて、何かを描くこと、そして考える事とも関わってきていると思うとなかなか面白いなーと思ったのでした。

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ユーザーイリュージョン―意識という幻想
ユーザーイリュージョン―意識という幻想

2010年02月08日 21:56Fujii

関係性を描くムズカシさと言語化されないこと

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『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』を読んでから、言語化することとか意識されることとかについて考えています。

基本的には、言語化、もしくははっきりと意識されることというのは少なくて、それ以外にたくさんの信号(この本でいうと情報)を日々受けているというという構図で考えています。

今回一連の「描く」ということについて描いてみましたが、この描くときにもそういったはっきり意識されない部分を使って描いているような気がします。もちろん意識的に描く部分もありますが、それよりも蓄積されているなんらかの情報を使って描いているのではないかと思います。

ということで今回は動画も紹介してみます。

この動画の中には、言語化されないようなスノーボードの要素がたくさんはいっていて、信号として発せられていると思いました。

言語化できる点もあります。

するとすれば、街の中で遊んでいるところや、転びそうになったのをみて仲間がちょっと笑っているところとか、変な裸のおじさんをあえて映像の中にピックアップしているところとか、あぶなっかしいことをやっているところとかになります。そもそも、音楽をつけて撮影している事自体もそうです。

自分自身最初は映像で影響を受けたので、なんとなく映像がスノーボードの文化に果たす役割は大きいのかななんて思ったので例としてあげてみました。

物語調の回はこちら

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ユーザーイリュージョン―意識という幻想
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2010年02月07日 22:02Fujii

白紙に線を引いてキャラクターになるまでになにが起こっているのか?

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こぼれ話

そういえばペルソナという手法を知ったときに、すぐにシナリオ(シークエンス)のほうに注目したり、「ペルソナ/シナリオ法というのは答え合わせでなく発想法である」と思った理由も今回描いたようなことを考えていたからです。(『Webアプリケーションや業務アプリケーションとメディア型Webサイトの異なる点とそれぞれのユーザビリティ』の最後の方に文脈的インタビューというくくりでほんのちょっとですが。)

キャラクターとはなんだろう?

キャラクターとはなんだろう?と考えることがあります。

言葉にすると結構カンタンなんです。例えば、ひとつの物事に対してどう反応するのかということです。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の話と同じで、どう反応するかが違えばそこにキャラクターが生まれてきます。違いがなければ、キャラクターがそもそも生まれません。

これは一つのことに対しての反応ですが、また別のことに対して、同じキャラクターがどんな反応をするかを考えなくてはいけません。

考えなくてはいけないという言い方になるのは、実はとても苦しい時があるからです。つまり、その物事に対してそのキャラクターがどんな反応をするのか描けないときです。

特に新しく登場したキャラクターは安定しません。

紙に描かれた線であるということを思い出す

残念ながら、自分が描かなければそこに何も生まれない。やっぱり紙は真っ白なんだということです。

うまくいくときはあたかもそこにそのキャラクターが存在しているかのようになりますが、うまくいかないときは、今まで自分が描いていきたんだということをものすごく実感します。

表情を描くということと同じように、それなりにかけたときでもなぜ整合性がでてくるのかわからないということです。

「キャラクターが動く」という言葉も不思議な言葉

よくキャラクターが動き出すとかいいますが、動くときと動かない時はなにが違うのか謎です。

この言葉の表現自体が、まず、描き手が自分で何から何まで言葉で思考して描いているというよりも、もうちょっとなにかちがった状態で描いていることをあらわしていそうです。

そんなことを体験すると、人の作品でも、この人物だけは妙に存在感があるけど、こっちはぶれている感じがすると思ったりすることがあるのは、もしかしたら、描き手のなかでつかめていないからなのかなーなんて感じます。

また、このキャラクター好きでしょ?ときくと結構あたったりするので不思議です。

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2010年02月04日 22:21Fujii

単なる形以上の表情

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描くということの不思議

ほとんどの方にとっては意味不明なゾーンにはいっていく話かもしれません。

描いている自分としては今までのブログの中でかなり注目しているテーマではあります。描くということの不思議と根幹に関わってくる気がしています。

さて、線の集合体であるこのマンガのような記号化された絵の場合でも、線のうちのどこか少しが変わっただけでも、大きな影響がでてきます。

これほど少ない線の場合でも

例えばマンガの中の6コマめの絵。なにかちょっとおかしなことになっています。なぜそうなるのかということよりも、まず注目する点は、これほど少ない線の場合でも全体的に統合されていないとおかしなことになるということです。

そして、なぜおかしなことになるのかわからなくても、その絵を見た人も敏感に感じ取ります。これは、普段意識していなくても、統合されたものを毎日見続けているからかもしれません。仕組みや理由を説明できなくても感じ取ることができる。

黒目の二つの点

物の形のようにその形をはっきりと認識しやすければ、描くことができます。しかし、もっと統合されていないと、形はあっているけれど表情がおかしいということになるのだと思います。

例えば、目の中の黒目は2つありますが、その黒目の二つの点が微妙にずれたりすると、絵を見た人は、どこを見ているのかがわからなくなります。1コマめも少しずれています。

生きている感じがする表情とそうでない表情

また、描くときに気持ちを考えるといっても、はっきりと言葉にできるものでもありません。マンガの2コマめの表情は言葉でいうとどんな表情ともはっきり説明もできないですが、何かを表しています。

なんとなくその絵にかかれたものが生きている感じがするというのは表情と無関係ではありません。

自分の絵でもそうですし、人の絵でも、絵にはなっていても、なにかそこに生きている感じがしないということはあります。

線の集合体が単なる形以上になるとき

一体このように、線の集合体を単なる形以上の表情のレベルまで統合するときに何が起こっているのでしょうか?

これは、自分のためにも強調してみます。

一体このように、線の集合体を単なる形以上の表情のレベルまで統合するときに何が起こっているのでしょうか?

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2010年02月03日 22:11Fujii

「物の形」を描くプロセスの例

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ということで、「物の形」を描くプロセスの例をあげてみました。

丸、三角、四角を組み合わせて描いていきます。文字を書くのと同じように、組み合わせです。

物の形を見て、ココは丸だなとか、ここは四角だなとか、ココは三角のこの部分だなとかやっていく。観察して、頭の中の「丸、三角、四角」というデータと、見ている対象を照らし合わせ続けることです。

その照らし合わせてみた結果が絵描き歌の世界です。

もちろん人間の「見る」という行為自体が人間は当たり前に行い過ぎていて、ロボットで再現する時にそのあまりの複雑さに気づいたという研究者の話が『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』という本の中でも出てきます。

なので、ホントのことをいうとどうやって自分が見た視覚的な意味を持たない状態の情報から、頭の中にある「丸、三角、四角」というストックされている形と類似性を見出し、意味のある情報に変化させているのかはちょっとわからないです。

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2010年02月02日 22:35Fujii

絵を描く時に難しいと思うこと

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ちょっと最近マニアックな感じになってきましたがネットの片隅なので好きに描いてみたいと思います。難しいと感じることをあげていきます。

  1. 物の形
  2. 表情
  3. 性格
  4. 関係性

いつも通り排他的な分類ではありません。

長くなりそうなので、分けて描いてみようかと思います。なので今回はきっかけを簡単に。

難しいなーと思いながら色々試しているうちに、たまに描けたかもと感じるときがあります。

ところが、自分はどうやって描いたのかがわからないということが実はあります。

で、そこから、そもそも人が何かを描くとはなんぞ?というかメカニズムはどうなってるんだろうと考えたのでした。

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無理に言語化するのをやめる

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よく言語化することが大事だなんて言われてますが、そのスイッチをオフにすることも必要なんじゃないかと思っています。

アウトプットの段階で言語化するのは必要ですが、インプットの段階でも言語化しながらやってしまうと、言語化されたものがインプットをまるごと表しているように錯覚してしまうことがあるかもしれないと思いました。

と、ややこしく言語化してみましたが、はっきり意識していなくても、感じ取っていることがあるのなら、そのあたりをちょっと重要視してみようかなと思うこの頃です。

とはいえ意識していない部分なのだから気づいた時点で意識されてしまっている、なので本当の無意識とは違うと思いますが、無理に言語化しないようにするという感じでしょうか。

無意識うんぬんというよりは、言語化されるときに捨てられてしまっていることがあるという点を考えて、という程度です。

自分の場合は身近なところのスノーボードで。運動は考える時間が少ないので自然にそうなってる気もします。

それ以外は頭をからっぽに、ナイターで降ってくる雪をただ眺めたり。そこには言語化すると抜け落ちてしまうこともたしかにたくさんある。ついったーの対極に位置する情報かもしれません。

なので、そういう体験しなければわからないことができるのは結構贅沢なのかなーと感じてます。やってることは、登って降りてをひたすら繰り返すという非生産的なことですけど(笑)

関連書籍:

ユーザーイリュージョン―意識という幻想
ユーザーイリュージョン―意識という幻想