
ウェブサイトのメニューの一番左にある「ホーム」について考えてみたいと思います。これは一体何なのでしょうか?検索エンジンから直接ページに移動することもありますので見ないこともあります。しかし、昔からあるこのページ。一体何なのでしょうか?

ウェブサイトのメニューの一番左にある「ホーム」について考えてみたいと思います。これは一体何なのでしょうか?検索エンジンから直接ページに移動することもありますので見ないこともあります。しかし、昔からあるこのページ。一体何なのでしょうか?

というわけで、ウェブサイトのインターフェースの基本的な部分の見直しのお話です。
何気なくあるメニューは、データの集合をある一定の基準に従って引っ張り出すための要素と考えると良いかと思います。
これらは別の要素なのであまり同じレベルで考えないようにすると、どこが操作するところだったかわからなくなったりするというトラブルが、後々減ってくるのではないかと思います。

ウェブサイトやブログに当たり前のように配置されるメニューですが、これはいったいなんだろう?と改めて考えてみます。
時に装飾もされるこの要素は一体何か?
サイトのそれは「見る」要素か「使う」要素か?のどちらかというと、「使う」要素です。ということは少なくとも、ごちゃごちゃ動かすものではなさそうです。
配置場所は、上にあるときもあれば、横にあるときもあります。サイトによっては、これが多すぎて、「見る」要素がとてもとても少なくなってしまっているサイトもあります。
これらは、サイト内の「見る」要素を分類していることが多いです。つまり、分類するために「使う」要素といえそうです。
当たり前に存在するよくわからないものを、確かめるためには一度とってしまうのがてっとりばやいです。
とったときに感じる違和感から、それが一体何か?のヒントが生まれることがあります。
ということで、いさぎよくとってしまうと、「見る」要素だけになります。分類のための「使う」要素を全部とると、残りは「見る」要素だけになる。

「歩く」とは身体的なこと。それも生まれてから、歩くようになってからずーっとやってきたはずのこと。それでも、何をしているのか自覚していなかった。
つい最近、ああ、こういうことをしているのか!なんて気づいたのでした。
「歩く」以外でも、人間は毎日やっていても無自覚、そしてやっているのが自分でもその仕組みのわかっていないことは実はたくさんあるのかもしれない。
お久しぶりです。
フェイスなんとか全盛の時代にブログ更新!
久しぶりになった理由は、パソコンの調子が悪かったのと、ほかにおもしろいことがあってこのブログのテーマと特に関係がなかったので、ここには描けなかったということです。
とかいいつつ、カメラを買って動画撮って編集してというのがそのひとつです。映像作品を作るわけでもなく趣味レベル。んー、でもこれがなかなか楽しかった。
でもって、こういったものをウェブサイトやらに載せるとウェブサイトが面白くなる。そー、考えるのも無理はないんですが、載せ方に注意が必要かと。
ウェブサイトには、「使う」要素と「見る」要素が大体混ざっていて、これが逆になるとなかなか使いにくくなる。もしくは楽しくなくなる。
この二つが混ざり合うと結構きつい。基本は明確にエリアなり分けたほうがいい。
Youtubeでコントロール部分がグニョグニョ動かないのは、誰もそこに動く何かを期待して、その様を見ていたいわけではなく、再生箇所を変えたり、音量を調節したり「使う」ためだからだと思います。
反対に、Youtubeの映像部分に、やたらと選択肢が出たり、何かすることを求められても、困ると思います。映像の部分は「見る」ためのもの。
画面に表示されるものとしては全画面にしない限り、この両者は混じっています。ほんとはあんまり混ざるのはよくない。どこが「見る」でどこが「使う」かをいちいち判断しないといけないからです。けれど、このよくないことを踏まえ、それでもひとつの画面に表示させるのであれば、せめて、明確に両者のエリアを分けよう!というのが今の形だと思います。
利用する人と画面の動きは反比例する
3種類のサービス の続きです。
結構こういったタイプの現象というのがあると思います。
例えば、ダイビングなんかでもやろうと思えばできます。「イルカ検定」というのをはじめて、どれだけイルカをみたのかを基準に級をつくります。そこに海をかけあわせてもいいです。
たくさんの海でたくさんのイルカを見ると級が上がっていく。そういった仕組みをつくるということが一体どういう事かというと、ダイビングというものを変えてしまいます。
変えるというかひとつのフォーマットができるといったほうがいいかもしれません。
イルカ検定が普及すると今度はイルカ検定に合格することこそダイビングであるということになってきます。
イルカの数値を上げることに一生懸命になるイルカ探しマシーンのような人達が量産されることも考えられます。
このようにもともとはどこの海に行って何を見てもよかったダイビングというものが、少しづつイルカ探しに変わってしまうというようなことがあるのではと思いました。
なので級をつくったとしてもその級が作りあげるものと、もともとのものとの差異は必ずあって、へたをすると別のものになるということも忘れないようにしないとなと。
実際検定にはなってなくても、スペック検定のようになってしまったりというのはカメラとかの世界でもあったりする気もします。それは写真を取るということとはもはや別のものになってしまっていたり。
検定の特徴としては、基準は常に単純化されて、なおかつ数値化しやすいものにするしか無いからかと思います。
そのときに、数値化できないものが抜け落ちてしまう。なので、そういった基準ができたときには必ず抜け落ちた面はあるというのをセットで気に留めておくといいのかもしれません。

ひとつのサービスに見えるものも複数のサービスの集合体なのではないか。
レストランで消費するサービスにあたるのは「料理」、教わるというサービスは「料理教室」、材料を手に入れるサービスは「具材または道具の提供」になりそうだ。
スポーツ施設で消費するサービスにあたるのは「利用される施設」、教わるというサービスは「スポーツ教室」、材料を手に入れるサービスは「ウェアなどの装備の提供」になりそうだ。
サービスの集合体であるので、どのサービスを利用するかによって行動パターンや文化が異なってくると思う。
例えば消費するサービスをメインに利用する人と、教わるというサービスをメインに利用する人では行動パターンや文化が異なる。
特に、この教わるというサービスによってどんなことが起こるのかということを次回にメモしてみたいと思う。

「調べる」の仕組みについて考えてみた。
「知っていることで調べることのできる範囲」というものと「知っていること含んでいる範囲」と「知らなかったので調べられない範囲」の3つを考えてみた。
人によっては「3つあわせて『知っていることで調べることができる範囲』だよ」と思うかもしれないが今回はこのように分けることにしてみた。
「調べる」という行為はこのように、スポットライトが次々に増えていく過程を指す。
この中で、特に重要なのは2個目のスポットライトであると思う。3個目のスポットライトというのは実はどうやっても最初からはスイッチをいれることができない。
なので2個目が大事になる。
「調べる」というのは何かに一直線に向かう訳ではないと感じるのはこういった仕組みを持っているからだと思う。
また「最適なもの」という条件をつけて調べると、なかなか時間がかかるのも、暗闇の中にあるかもしれないスポットライトの当たっていない何かすべてを対象としてしまうからである。

変容するということは前提にして、前回のステップのひとつをもう少し考えてみるとこうなる。
前回の「人の映像機材を知る」という1ステップに省略されていたことに当たると考えて良いと思う。
何かを捉えるときに省略されたところを考えてみると、色々やっていることもあったりしておもしろい。
ここでは「調べる」ということをやっている。
大きな特徴は、システムやサービスの複数回の利用があるということ。
Vimeoなどの動画サイトも、最初の時と、新しく知った時と2回利用されることになる。目的も異なってくる。
ただし、全く異なる目的なのかというとそうではなく、比重が変わってくるのだと思う。

真似する過程をもう少し詳しく考えてみると、このようになる。
ひとつの行動にもステップがある。
つまり、文化を捉えるときに、大まかな行動があって、各行動に細かいステップがあってという視点で捉えることができる。
ただし、何かそうやって細かく切り刻んでいくとひとつの法則が綺麗に出るかというとそうではないのではないかと思う。
むしろ、そこにあるのは「物語」のようなもので、ふとしたきっかけで変わるようなものの集まりなのではないか?
かと言ってそこに何も無いかというと、そうでもなくて、「大体こんな感じ」というのはあったりする。
工程のようにきっちりしたものであったならそこにはもともと「物語」は無いのかもしれない。なんて考えたり。
ちょっと違うかな。「変容するもの」という前提で考えることがいいということかな。

まずひとつのグループ内の人すべてが同じような行動をするかというとちょっと違う。ひとつの文化の中にもキャラクターが存在する。
スノーボードを例にすると、滑るだけの人と滑りながら撮る人で分けることができる。
昔々のスケーターの記録が残っているのは、スケーターだけでなくカメラマンがいたからで、滑る人と撮る人という構成でひとつのグループができあがる。
しかし、流動的でもあるので、撮っているところを見てもなにも思わなかったけど、撮れたものを見たら撮りたくなったということもある。
さらに、ひとつのグループで完結せず、別のグループの構成員になることもある。そうすると、そこでは唯一のカメラマンであったりすることもある。
なかなか複雑であるのが人間の行動だと思う。
ただ、行動には何らかの文化がある。これは確かだと思うし、その文化を知ろうとすると、人の行動を違った目で見ることができるかもしれない。

昨年末にGoPro HD というカメラを買ったのですが、これがまたなかなかのお気に入りカメラになっています。
今まで買ったカメラと比べると、このカメラはちょっと変わっています。
まず、びっくりするのが液晶モニタがありません。魚眼カメラです。防水のハウジングにはいっています。
へんてこな仕様ですが、スノーボードやアウトドアではなかなか面白い映像を残してくれるので気に入っています。
では、なぜスノーボードやアウトドアに向いているのかを考えてみると、おもしろいことに、自分の普段の行動というのが、スポーツの範疇を軽々と超えていることに気付かされます。
1.スノーボードやアウトドアで遊びます。
2.そのときに記録をします。
3.みんなでそれを見ます。
4.それを見て話が盛り上がります。
こう書くと当たり前なのですが、これがひとつのセットになっています。セットになっていることで楽しくなります。
「スノーボード=楽しい」「アウトドア=楽しい」と言葉にしてしまうと、その事自体にしか目がいかなくなり、これらのセットになっていることは忘れられてしまいがちです。
さきほどの GoPro HD というカメラはこういったセットになっている状況の中で力を発揮します。
さきほどの4つのことは当たり前だと思っていても、これら4つのことを「スノーボード」「アウトドア」ということに含めるかというと、人によっては当たり前ではなくなることがあると思います。
これは、言葉の持つ落とし穴だと思います。確かに、写真を撮ることも、上映することも、思い出して盛り上がることも「スノーボード」でも「アウトドア」でも無いとも言えます。
しかし、実際の行動を見ていると、すべては地続きで、自然に行なっていたりします。どこまでが「スノーボード」や「アウトドア」なのか考えてはいません。
言葉の不便な点は、この地続きで自然に行なっていることをうまく言いあらわすことができないことがある点です。
ですので、逆に言葉から考え始めるときには、最初に「◯◯とは何か?」という問いかけがないと、あさっての方向に行ってしまうのだと思います。
注意する点は、同じシステムを使っていても使う人間によって、使い方が異なるということ。
使い方がどう異なるのかは、その使い手がイメージしているのは何かを考えないとあまりわかってはこない。
目の前の「使い方」が違うということだけしか見えてこない。もちろん、使っている本人もわかっていないので、想像するしか無い。想像する際に、目の前の「使い方」から「使い手の脳内のイメージ」を「推測」する。
推測の際のステップは次のようになる。
目の前にあるものだけを見てもダメだけども、目の前にあるものを見ないとはじまらない。なので「使い方」を見る。
見るときの注意点は、あまり一般的なイメージだけでとらわれない。「楽しいからやっている」とか、「必要だからやっている」とかそういうことだけに当てはめないようにする。
広く似たような使われ方をしているシステムや概念がないか考える。実際のコンピュータシステムでも良いし、そうでない概念でも。(今回はメッセンジャーやチャットのようなサービスとつながりを考えた。)
その似たようなものとどのような点で似ているか考えてみる。主に、使い手の中でどういった位置づけなのかを考えるのが大事だと思う。
ステップを行う上での大前提として、「自分の経験」がいかにストックされていて、それを引き出せる状態にしてあるかが必要となる。
例えば、ステップ1で使い手が常に「楽しいからやっている」「必要だからやっている」と思ってしまうのは、「人間が常に何か目標を持って行動するもの」と思っていることからくる。
振り返って、自分自身が「かならずしも目的を持って何かをしているわけではない」ということを知っていれば、なんとかそういうことも想像する可能性が広がる。
特に大事なのは、「人間は矛盾する行動をとる」ということ。理路整然と正論通りに人は動くと思っているとなかなかストックされていかない。それは、ストックする際にスマートな形でストックしないといけない気がするからだと思う。そこでネジ曲がった形で認識されてしまうのかもしれない。
むしろ逆かもしれない。「ネジ曲がった人間のいびつでヘンテコリンな行動」をまっすぐに伸ばして認識してしまうと言う方が近い気もする。
「意味はわからないけどこういうことをした」「矛盾するけどこういうことをした」「ずるいけどこういうことをした」「理にかなっていないけどこういうことをした」というようなことをなるべくそのままストックしておく。中にはそういうことをしない人もいるかも知れないが、大抵の人はしている。
そういう自分を含む人間の「矛盾する点」をひとまず「知る」ことが大事。それができれば、あとは比較的スムーズに行く気がする。ストックできていれば引き出すことも自然と出来るはず。
今回のmixiの場合も、自分の中にほんの少しでも両方の型の経験が無いならば、想像はできないと思う。その経験はほんの一瞬でいい。「自分はそんな勝手な人間ではない」となかった事にすればその小さなきっかけは失われてしまう。

たまたま暗い画像になってますが停電中に描いたわけではありません。

よく聞く言葉ですが、なんで「疲れる」のかな?どういう人が「疲れる」のかと考えてみました。
SNSはいろんな人が使っていますが、なんとなく「色々見たなら反応しろ!」という人と「好きに見させてくれ!」という2つのタイプがいるのではないかということです。
これは、ひとつのサービスでも、脳内にイメージしているサービス像が異なるということだと思います。
そもそも前提とするイメージが異なっていれば、同じサービスを利用していても対立してしまうこともあります。
つづく。

「デザイン」と「スポーツ」は一見、真逆に位置しているように見えます。
この2つはイメージの上では「インドア」と「アウトドア」と捉えることもできますし、「美術」と「体育」として扱われることもあります。
一見、真逆です。スポーツをして絵を描く人というのはたくさんいると思いますが、なんとなくイメージとして相反する感じがします。
さてこの2つですが、「脳内にイメージしたことを現実の世界に再現する」ということから考えると共通点が見えてきます。
スポーツはイメージトレーニングという言葉もあるくらいですので、何か新しい動きを習得するときには、必ず脳内でイメージしてから行います。
逆にイメージできないことはできないと言っても過言ではありません。
絵を描くということも、イメージしたことを再現します。こちらも特に説明する必要もないくらいだと思います。
そういった共通点もありますが、スポーツのイメージトレーニングはより「動的」です。シークエンス、つまり時系列があります。
時系列というのは、「このつぎに、こうなって、こうなって」というように変化していくことで、そういった連続するものがイメージすることの対象になります。
普段感じることは、何かのシーンを再現するときにこのイメージトレーニングの時と似たようなことをしているということです。
何かのシーンというのは、具体的にはユーザビリティテストのようなイベントの準備でもそうですし、デザインされたものをユーザーが利用する状況を思い浮かべるときもそうです。
そういった意味で、冒頭の「デザイン」と「スポーツ」が交差するわかりやすい例は、舞台芸術や、映画、アニメーションではないかと思いました。
そいうのも、ああいったものは、静的な想像力だけではなく、連続する動的な想像力も使うのではないかと思ったからです。

デザイナーは脳内に作ったものを再現しています。ウェブデザイナーは脳内のウェブを実際に再現するためにウェブのサイトやサービスを作ります。
おそらくプロダクトにおいてもそうでしょう。脳内にあるものを現実の世界に再現します。
さて、「脳内の世界の再現」は特殊な能力なのでしょうか?そうは思いません。
その程度によって特殊な能力になるとおもいますが、誰でも普段から行っていることだと思います。
今晩の食材を買いにいくときも行っています。脳内で買い物をして、現実の世界で再現するのです。
どこにいって、なにをさがして、何かを買ってということがだいたい決まっています。それは脳内での世界です。
その世界を実際の世界で再現しようとするのです。
脳内のものを現実世界で再現しているとすると、たとえばデザイナーが作ったものを見ると、そのひとの脳内のものがみえることになります。
それは、そのひとが何をどう捉えているか?を垣間見ることになります。
例えば、「北斗の拳」という漫画がありました。
これは、登場人物の大きさがその時によって変わります。
明らかに遠くにいるはずの人が手前の人間よりもものすごく大きくなったりします。
あるシーンでは、同じくらいの大きさの二人だったはずが、別のシーンでは片方の人がもう一人の人を手のひらで持ち上げてしまったりします。
これは、そのシーンごとの存在感を表すために、遠近法や一貫性を無視しているのです。物体としての大きさではなく、シーンの中での存在感を表していると言えます。
登場人物をどう捉えているかが絵になっているのです。
じつは前にも描いたスポーツもそうです。ルールという概念のような世界が脳内にあって、それを共有して競技を行っているのです。
脳内にルールを含めた競技の世界があって、それを再現していることになります。
さて、ユーザーなどの行動を考えるときにもどう捉えたらいいのかのヒントになります。
ユーザーの言動などをそのまま追うのではなく、ユーザーが、というより一人一人の人間が世界をどう捉えているのか?を考えると違った見方ができるようになるのではないかと思います。

何かの準備をするときにシミュレーションをします。特に自分は絵や図を描きます。
なぜかというとシミュレーションをよりしやすくするためです。
自分自身でもなぜこういうことをやるのかというのを改めて考えてみました。
何の絵を描くか?というとその時によりますが図以外では「場面」を描くことが多いです。
脳内に想像した場面を絵にします。絵にする過程でより強固な場面を脳内につくりあげます。その時に何が周りにあるか?何を手に持っているか?などです。
この脳内の場面というのは、数日後や数時間後に現実に再現される場面です。
なので、単にお絵かきをしているのではありません。現実に起こりうる場面を脳内につくりあげて、それを現実の世界に再現するためにやっています。
例えば、建築などで、作る前に設計図をかくと思いますが、それは単に絵を描いていているのではなく、現実の世界に作りあげようとしているものが描かれています。
この脳内にシミュレーションした世界を現実の世界に再現することについてつらつら描いていこうかと思います。

続きです。
「落書きする」という行動をデザインするためにしたことは、最初にちょっと落書きしておくということだけでした。
もともと、何も無いところに人間は落書きしちゃうので、ほとんど何もする必要がないといえば無いのですが、落書きしているところにはたくさんの落書きが集まっているのを見たことがあったのでそうしてみました。
最初はポツポツと人が入っては出ていったのですが、マジックの匂いでおえっとなるくらいの人が集まってました。
落書きが集まり始めた途中からは、書くのではなく読むということもし始めたので人でギッシリになったのかもしれません。
ろくな落書きがないだろうなとおもってましたが、ろくなものがありませんでした。
しかし、終わったあとで担任の先生は書いてあることからなんか良いことを抜き出していました。
おとなになった今では、そういったものをピックアップするのもおもしろいかもなと思うのですが、当時は、はっはっは!普段は表には出てないけど、ろくなことを考えてないのだ!見たか!と思ってました。
あんまり落書きも読みませんでした。ただ、何かこう書いている人たちが、あっちいっては書いてとしている様子を見てました。
いまでも、なぜ落書き自体を読もうとしなかったのかはよくわかりませんが、落書きよりも、普段の環境を変化させると、行動が変わるはずだ!ということが目の前で起こったので、満足したのかもしれません。
あとは、なにかこう人が持つエネルギーがくすぶっているのではなく爆発している感じが好きだったのかもしれません。
ひねくれた中学生です。

ということで前回の続きですが、できたものは教室いっぱいに広がる白いドームでした。なぜドームにしたかというと作ってるうちに傾いてきて、なんとなく屋根みたいにしたらおもしろいと思ったからだったと思います。
さて、不安要素のひとつは、「書けるのか?」でした。来た人がほんとうに、書くことができるのか?ということに尽きたと思います。特にテーマもありませんし、何よりも普段学校で「やりなさい」と言われるフォーマットには無いのが特徴です。
簡単に言うと「ほめられる」ことに入ってないわけです。特に学校において字を書くときには、「正確に写す」か「答えを書く」くらいしかありません。
美術や体育の時間はもうちょっと別だと思いますが、字の場合は先ほどの2つがとても多いので、学校という場ではあまり「落書き」は馴染みません。
そんなこんなで、計画が採用された時点で「わっはっは、文化祭とはいえ普段隠れてやるようなことを学校という場でできるようになっちゃうぞ」と思いました。しかも、はじまる前はきれいなものができあがるのでイメージはクリーンです。
さて、そんなことを考えつつも「美術や体育では、好きに描いたり動いたりするんだから、字を書く場でも出来るに決まっている。やらないのは創造的な能力があるかどうかじゃないほかの理由があるからだ。人間をなめんなよ。」というわけのわからん気持ちもありました。
つまり、美術や体育では、「怒られない」という場なのでできるのです。同じ人間が違う場でそれをやらないのは、「怒られる」からです。なので能力の問題ではありません。能力の差はいろいろやり出してからその後に出てくることです。
テーマは落書きでしたが、「結果」と「能力」の間にある「暗黙のルール」をなくすことで、「能力」と「結果」が関係していないことを実験してみたかったのかもしれません。このころからひねくれています。
そういう謎の静かな気合のもとで、できあがったドームを眺めていました。
つづく

前に描いた気もほのかにしますが、細かいことはあまり気にしないでおきます。
確か中学生かなんかの文化祭のことです。クラスの出し物を「どないしょ?」となったときに、「なんかおもしろいことしたいなー」と思って「落書きできるようにしよう」と提案してみました。
「落書きできるスペースを作る」ということなのでインパクトがなかったのですが、そのほかのアイデアが大体ありきたりなものだったせいか、決をとってみるとクラスの出し物として決定していました。
自分としては、準備段階では真っ白なスペースを作るという部分がおもしろいとおもっていました。お化け屋敷や、お店みたいなものと比べると、表立っておもてなしをする感じではないからです。多分準備が終わっても「なんだこりゃ?いいの?」となるのもまた、おもしろそうだとおもっていました。
そんな、作る側にしても、まったく不親切な計画にも関わらず準備というのは楽しいものでみんな特に何というわけではなく、わいわいつくってくれたのでした。
たぶん、なんかよくわからんものを作ってるし、どうなるんだろう?と思ってつくっていた人もいたと思っています。
つづく

「劇場としてのコンピュータ」では「インタラクティビティの基本的な基準がある」として、こう書かれています。
目の前の表現行為に自分も参加していると感じるか、感じないか
劇場としてのコンピュータ/ブレンダ・ローレル
これを読んで、現実の世界にはありふれているものだと思いました。とてもインタラクティビティの高いもの、例えばスノーボードもそうですがそういったものは、特にコンピュータの世界にあるわけではないということです。
インタラクティビティという言葉自体は、「コンピュータの世界の」という意味ではもちろんないはずですが現実の世界の話では、わざわざ「インタラクティビティ」とは言わないので無いと思ってしまうかもしれません。
実際は逆で、インタラクティビティは現実の世界に溢れかえっていて、コンピュータの世界では現実の世界ほどないので「言語化」して意識する必要があったため「インタラクティビティ」という言葉が時々でてくるのかなと。

昨日の「コンテンツに感情移入できる人間の「ごっこ」能力」でもでてきましたが、ゲームというものが世の中にはあります。
ゲームというとコンピュータゲームを思い浮かべますが、スポーツでもゲームという言葉は使われます。「1ゲームめはどうだった?」という様にです。
スポーツをやっていて考えることは、「誰が最初にはじめたんだろう?」ということだったり、このルールは「誰が最初に思いついたんだろう?」ということです。
それは、絶妙なルールを感じたときに思うこともありますが、「よく考えるとなんでこのフォーマットを人類の一部ではあるけど多くの人は同じフォーマットを守って一生懸命やっているんだろう?」とふと感じたときにも思います。
巻き戻しをしていくと、今自分が行なっているスポーツのフォーマットを覚えたのはあの時だったな、ではその時に自分が知った情報を作った人がいて、それはどういう人だったのかな?おそらくその人も、どこかで教えてもらってそういうルールだと知ったんだろう。
なんてことを考えると、では、最初に考えた人は誰だったのかな?なんておもったりします。正確には誰というよりも、どういったプロセスだったのか?ということです。
巻き戻す過程では、そのルールを知っている人たちが熱狂したり、感動したりするシーンもでてきます。
しかし、サッカーの球がゴールと呼ばれているカゴに入ったからどうだというのでしょう?あんまりそれは意味がありません。バスケットボールも同じです。陸上競技も同じです。速く走ったから、なんなんだ?とわれると、特に返す言葉が思いつきません。
こないだも、ゴルフじゃないですがゴルフみたいな事をやったのですが、穴ぼこに球を棒でつついて一生懸命入れようとしているわけです。これがスポーツというものですが、地球にはじめてきた宇宙人がもし見たとしたら、「何をしとるんだ?」と思うことでしょう。
そんなことを考えつつ、とにもかくにもスポーツは「ルール」があるということは確かだと思いました。しかしその「ルール」で決められることはそれほど何か意味があるわけではなさそうです。
カゴの大きさが、大きかったり、小さかったり、足で蹴らなければいけなかったり、足で蹴ってはダメだったりとスポーツによってバラバラです。
しかし、どこかでそのスポーツごとのフォーマット、そのひとつとして一番わかりやすいのはルールになりますが、それがデザインされてきたと言えます。
眼に見えない、まさに概念のレベルでのデザインです。
「足を使ってはいけない」「あれをゴールとしよう」「あれに球がはいると得点としよう」「得点は多いほうがいいことにしよう」とそういったことがデザインされたはずです。(「いいことにしよう」というのは価値のデザインです。)
この場合は「なぜそうデザインするのかは特に理由はない」ということになるでしょう。
「しいていうならば」とデザインした誰かが言ったか、その場にいた皆の雰囲気ではこうなったでしょう。
「そっちのほうが遊びとしておもしろそうだから」。
僕は、スポーツの発祥はこうだったのではないかなと勝手に思っています。
そんなこんなで、普段目にするスポーツはルールがデザインされたあとなので(ほぼ決まっているので)忘れがち(もしくは考えもしない)ですが、スポーツは長い目でみると基本的には、「ルールをデザインする人」と「作ったルールを守る人」の2種類いるんじゃないかと思いました。

短くいうと身の回りのコンテンツとは色々あるよなー、それを色んな形で受け止めて楽しむ人間て不思議だなーというおはなし。
普段はあまり意識しませんが、体調が悪い時には、受けとめられるコンテンツは限られてきます。
例えば、動きの激しい映像はどんな人でも「今は、ちょっと無理」となるのではないでしょうか?反対に、ゆっくりとした声や、穏やかな声ならまだ比較的受けとめることができると思います。
映像や音声は、コンテンツの進むスピードが相手によって決められてしまいます。なのでそういう面では少し大変。
自分でコンテンツの進むスピードを変えられる文章のほうがちょっぴり楽だったりします。
しかし、文字は文字で読むのにこれまた少し集中力を要しますので、音声と文字だとどっちもどっちかもしれません。
とまあ普段はあまり意識しませんが、具合が悪くなる「ちょっとこれは無理」となるということは「コンテンツを見るだけでもパワーを使うのだなー」と思いました。
また「ちょっとこれは無理」の度合いが違うよなーということから先ほどの比較に至ったわけです。
パワーを使う使わないが、おもしろいかどうかに関係があるとは思いませんが、身の回りの「コンテンツ」をもう一度みなおしてみると、いくつかの種類に分けられるかもしれません。
例えば映像コンテンツの中でめまぐるしくカットが切り替わるコンテンツというのは、頭の中に複数のカットを記憶してひとつの世界を作り上げたりするので大変なんだと思います。
もともと普段から目で何かを見て記憶している時というのは部分部分を少しづつ見て、脳みその中でつなげていると思いますが、実生活では自分のペースでやっています。
激しいカットが続くコンテンツの場合、カットとカットの関連性をキープしておかなくてはいけないし、穴埋めパズルのように、カットとカットの間を想像しなければいけません。さらに映像コンテンツということは、時間配分を相手に委ねていることになります。
そんな要因で集中力を使うのだと思いました。
例えば、マンガとアニメは何が違うかということにもつながります。マンガは決められた時間で読み終わらなければいけないわけではありません。アニメは時間が経つと終わります。
映画はもちろんアニメと同じ。舞台も時間が決められているという意味では同じです。ラジオも同じ。
ゲームはどうでしょう?ゲームの種類にもよりそうです。普及しているコンピュータゲームはどうでしょう?自分で決められる部分は結構多そうです。とはいえ、一定の時間ごとに何かが変化するという場合もありますのでどちらもありそうです。
わかりやすくいうとコントローラーをほうっておいても、何も起こらないタイプと、なにかが変わっていくタイプで別ということです。
マンガとアニメ、映画は複数のカットから成り立っているという意味では同じです。
一枚の写真は別です。写真集になってくると複数のカットになってきます。
厳密に言うと、一枚の写真の中にも何かを象徴する物などがいくつかはいっていたりしますので、複数とも言えます。見る人がなんらかのつながりを感じたら、その時点で複数とも言えるかもしれません。
意図していない2枚の写真でも、なにかつながりを感じたり、むしろつながりはなんだろう?と自然に考えてしまうのが人間だと思います。
物語はどうなんでしょうか?物語は文章で場面と場面をつないでいきます。例えば「帰省した田舎の自分の部屋で手紙を発見」という場面から「神社で手紙を誰かにもらっている自分」という場面につながったりします。
ひとつの場面を説明する時点でも、「右に椅子があって、椅子の上には時計があって、カチコチ鳴り響いていて、目の前に男が立っていて、男は黒い帽子をかぶっていて、、、」なんて複数のカットを使って説明するので、完全に複数のカットの方にはいりそうです。
ゲームはどうでしょう?オセロとかでないようなコンピュータゲームの場合は複数のカットがつながります。トランプの場合もジョーカーがこっちからこっちに「移動」したとか、誰の順番が「終わった」とかありますので複数のカットともいえそうです。
マンガや本はめくるスピードを自分で変える、映画はほぼずっと見てるだけ。では、ゲームはどうでしょう?ものにもよりますが、自分が何かしないと変わらないことが多いです。ここは結構異なります。
とはいえ、今回のもともとの話ででたように、マンガも本も映画も頭のなかでは、見ているものをつなぎ合わせるということをしているので厳密には分けることができません。
主観的なコンテンツなのか?客観的なコンテンツなのか?
文章で言うと、一人称で語られると主観的です。「私の目の前に大きな木が生えていた」というのと「その人の前に大きな木が生えていた」というのだとちょっと変わってきます。映像で言うと、ある意味ただ撮っているものはすべて主観的です。
アフリカの荒野を撮っている映像は、カメラマンの視点を得ることでまるでそこにいるかのように感じることもあるかもしれません。写真もそうです。
本来カメラなどで何かを撮るということはカメラマンの視点に成り代わって見る、そういった性質がありますが、おもしろいのは、映画などになるとそうではなくなります。映画では、「誰か」がいることからはじまります。誰かを撮っているカメラマンの視点である自分はまるでいないかのようになるところがおもしろいです。感情移入をしてしまうことが多いのではないでしょうか。
これは先ほどの文章でもあてはまりますが、一人称でない場合も、本来は客観的に語っている「誰か」がいるはずです。カメラマンならぬ語り部になるのかな。
ゲームはどうでしょうか?これは操作した結果画面の何が変わるかが主観/客観で異なるのですぐに区別がつきます。会社の人に教えてもらったのですが、自分で何かするというゲームでも主観というのは王道ではないみたいです。ひとつのジャンルになっているらしいです。改めて考えると確かに、海外の「DOOM」みたいのしか思いつきません。なので世界的にはどうなのかわかりませんがひとまず日本では多くはないという印象があります。映画のような擬似的な主観というか感情移入といったほうがいいのかもしれません。
色々分けてみましたが、ひとつの疑問が残ります。それは「感情移入」というやつです。
時間軸を委ねていて、客観的な映画のようなものでも、主人公に観客が感情移入します。一人称の小説であれば「私は振り返った」「私の前のあの人が立っていた」という文章を頭のなかで読んだりしていると、なんとなく「うんうん、私は振り返ったのだ」なーんて気になってくるのもわかります。しかし、一人称でなくても感情移入はします。
マンガなどでは、少女漫画と少年漫画でおおよそわかれますが、思考中のこともセリフのように書くのが少女漫画、実際に言ったことを書くことが多いのが少年漫画だったりします。で、もしかしたら少女漫画のほうが、思考中のこともセリフのようになっているので感情移入しやすいのかもしれません。が、少年漫画で感情移入しないかというと、そうでもありません。
映画を例にすると、「映画を見て感情移入する」ということは、カメラマンがいて、カメラマンの視点があって、カメラマンの存在を忘れ、映像を自分の視点だと思う、さらにその視点から見たなかに「誰か(映画の登場人物)」がいて、カメラマンの視点=自分の視点だったはずが、「感情的」にはむしろ「誰か」の視点にいつの間にかなっていたりすることだと思います。
このように映画などはかなり入れ子構造になっているのですが、人間はやってのけてしまうのでちょっと不思議です。「ごっこ」遊びというのも子供の頃からできてしまうのもあらためて考えれば不思議かも。

まずは実例の紹介です。そして、まとめずにつらつらと。
知っている人は知っている、今回マンガに描いたこの「GoPro HD」というカメラはなかなかおもしろいです。
利用状況をベースに必要なものをパッケージ化して製品にしています。利用状況をベースにしているということは、その状況でどうであれば、使う人にとって良さそうか?をいうことを考えていそうということです。
同時に、何をもって「良い」とするのかも考えていそうです。
例えば、水に濡れても大丈夫ということが使う人にとって「良い」のかを考えているということです。厳密に言うと、決まった「良い」というのはありませんので、「良い」といういことにしようとしているという言い方のほうがいいのかもしれません。
僕は今回の場合は、方法を探していました。撮る方法です。調べていくうちに魚眼がよさそうということになりました。
そこにも理由がありました。映す人が速いスピードで動くのでフレームアウトしにくい方法を探していたからです。魚眼レンズはすでに見たことのある映像から思いつきました。
で、出てきた「GoPro HD」というカメラは魚眼でもあり防水というようになかなかピッタリの特徴がありました。
繰り返しになりますが、方法を探していました。
一眼レフカメラを持っていくことも考えましたが、自分が楽しむためには気を使うものは持って行きにくくなります。それは利用状況として「撮影」になってしまうからです。
で、それを「良い」と捉えるかはそれぞれです。しかし、GoPro HD はおそらくそれを「良し」とせずに、製品を作ったのだと思います。
探していた方法というのはより詳しく言うと、利用状況を実現するための方法と言えると思います。
結果的に、利用状況を実現する方法の候補としてこの製品を使うことが選択肢として出てきたのです。
結果的には以前一度目にした製品だったのですが、今回なぜ再発見したかというと、自分のなかで意識する利用状況が変わったからだと思います。
なので、以前の利用状況では気がつかなかったことに気づくのだと思いました、
